2009年12月15日火曜日

どんな風に見えるのかなあ?

師も走り回ると言われる師走。
江戸時代には、ほとんどのお店が、貸し売りをしていて、その代金回収は年末だったとか。
それで師走!....かどうかは定かではないが、年末まで僕もスケジュールが詰まってきている。

唐突ではあるが、昔ロシアでは、いろいろな研究が実験されていて、
特に人間の感覚についての研究は、人権擁護団体からクレームの嵐になるような
「ここまでやるか」なものだったらしい。

昔視聴覚訓練の勉強をしていたときの資料だったが、
人間の目がなぜ、立体的にものを映し出すことができるのか?という疑問に
子どもを使って研究をした事例があった。

それは、生まれた子どもを集めて、いろんな情報遮断をして経過を見るというもの。

生まれたての子ども時代から、天井と壁に鏡のある部屋で暮らすと視覚は影響されるのか?
生まれてからずっと、片方の目を遮断すると、視覚は立体視ができるのか?
同じく、ずっと紅いランプの下で暮らすと?

などなど、結構な数の人体実験。

その実験の数々でわかったことは、
人間は、「脳で世界を理解している」ということ。

世界を見ているのではなく、脳の中で世界を作っているということだ。

同じ風景を見ても、同じ波長の光を見ても、それが万人が同じ風景に、それぞれの脳内に映し出されているということはなく、例えば赤色一つをとっても、あなたの感じる赤と私の感じる赤は、異なる色合いになっているかもしれないということだ。

なぜ立体視が出来るのか?には、実は答えはまだない。
「おおむねこのようになっていると、(考えられる)という仮説」でしかない。

人間の感覚器官を、リアルタイムで、生の情報としてつかむ方法は、まだない。
「経験値」的な、実験や体験の積み重ねであるだけだ。

脳の話は、だいぶとブーム的になっているが、
脳の解析を「脳」でやっているという構図の限界性は、昔から言われて来ている。
自分の目を、自分で直接分析できないのと同じだ。

ある傾向のある自分の分析を、その傾向がある自分の脳みそで行うと、ある傾向が偏って分析される。

「真実ってなんやねん」ということなのだが、
客観性のある「事実」(じじつ)と、主体のある真実(しんじつ)は、多くは異なることが多いのも、うなずける。

で、何を考えたのかということであるが、
なんてことはない。


そんな具体に真実が、どこまで行っても解明できないような、もしくは繊細な問題だとするならば、
今まで以上に、主観的でいいのと違うやろかあということ。

主観とは、主張とは、、、という毎度のテーマなのだが、
きわめて個人的、私的な範囲で言うならば、

「めっちゃ自分中心でいい」ということだ。
(もちろん、これは、他人の意見に左右されやすいとか、周囲の顔色を伺う傾向の人には特にという意味合いで)


それと、全く唐突続きだが、
最近よく思うことは、

「これ江戸時代やったら?」という自問自答だ。(すっかり文脈に着地点が見えなくなっているが)

江戸時代だったら、まず情報がない。(今よりは)
移動も今程出来ない。ほとんど徒歩だし、わらじだし。買物っていう行為も都会の限られたものだろうし、新聞テレビもない訳だから、朝起きたらまず何してたんやろか?とい想像だ。

身分は変更できない。農民に生まれたら、ずっと農民。
毎日夜更かしはできない。
食べ物は豊富ではない。
まず、文字は書けたかどうか。。。読めたかどうか。。。その前に、必要性があったかどうか。。。

同じ人間なのに、全く違う世界観と価値観と、生き方をしているに違いないが、その実感を考えるとき、日本では、100年も前にかえるだけで全く違うものなのだなあと想像する。


人間の歴史は、特に教科書の歴史は、「事件」が年表に並ぶ。
その時代の空気とか、価値観とか、生活とかは、
いつしか年末ドラマで見たイメージになっている。

人間は脳みそで世界を作っているとしたら。
一体、今の世界を見て、
江戸時代の人が見たら、どんな風に見えるのだろうか?

きっと、



これは、きっとだが、



江戸時代の人が、今の世の中を見たら、
こう思えるのではないだろうか。。。。

「神様がようさん、いてはる....」

車を見て、馬というか動物としか見えないだろうし、
テレビを見て、絶対神様が動いていると思うだろうし。

そして腰を抜かすのを通り越して、
「結構神様も、人間くさいなあ」と笑うのかな。


今日は、まったく文脈がまとまらず。これも師走か。。。