9月を迎えて、政治の世界では政権党が代表選挙をやるという。
政治は、冬に向けて、来年度の予算を議論するシーズン。
ニュースでは円高が話題となったりしている。
時代の閉塞感というもの。
本当にそれは閉塞感なのか、それとも閉塞感とアナウンスされていることによる社会の雰囲気なのか?
なぜ、閉塞感を打ち破れないのかという雑誌の特集が売れているらしい。
一見、原因究明のような感じを受けるが、テーマはそれで合っているのか?
課題について、何から手をつければいいかと悩む人々が、つまり、自分の視野から見えている課題の中から、議論となりにくい、波風の立ちにくいテーマをピックアップして、さもそれが難問のように表現をする。
問題はここにあり!という特集記事を読むと、一瞬、納得のあと、残尿感が残る。
特集記事の一説には、こう書かれていた。
現代社会は、19世紀、20世紀よりも「要素」が増えていて、そして関わる人々が増えているから、方程式の次元は格段に複雑になっている。複雑になっているが故に、1人の力では担当も出来ないから、守備範囲を決めて、分担をした。
守備範囲が固定されると、その守備範囲内での「慣習」が発生する。一度決められた役割には、仕事が振り分けられて、そしてそのうちに、役割担当が暇にならないように、新しい仕事が割り振りされていく。まずは、この役割分担の硬直化が問題。
そして、その役割分担の「維持」のために、たくさんの資料が作られる。
改革がなぜに難しいか?特集の解説が続く。
人は基本的に、他人から「さぼっている」とは見られたくない生き物であり、しかも、出来るだけ自分の労力としては「さぼりたい」生き物。自分がやっている仕事には、「重大な価値が存在している」という立場になりたい生き物。つまり、自分の存在価値は「ありますよ」という認識でありたいと思う生き物。
曰く、「あなたの担当していることは、無意味である」と正面から言われると、非常に抵抗する生き物。
曰く、「私の担当していることは、(あなたにはわからない)非常なる困難と、非常なるノウハウがあるんです」といいたい生き物。ここには、自分の存在意味という「他者から見られる評価」が基準となる「生き方」がある。社会を見ると、その「それぞれ」の立場が対立し、並立し、結びつき、まるで、糸がからむように交わっている。
だから、改革は難しいのだ。
一瞬、納得、そして残尿感。
特集は、こう結ばれる。
生き方という視点、ビジョンという視点。これが重要だし、今一番欠如しているもの。だからビジョンを示すべきだと。
これは大事!という認識は、多くの人が持ちつつある。だから、大事なのはわかるし、当然構築するべきもの。だが、そのビジョンの必要性をいくら訴えられても、具体的なビジョンを特集した記事をあまり見ない。問題の指摘ばかり。
ソフトバンクの孫社長が、300年ビジョンを出した。
youtubeでのコメントには、多くの「感想」が書かれているが、具体的なビジョンに対する批評は少ない。
僕自身は、IT革命が人々を幸せにする。と自動的に思ってはいない。IT革命で人々を幸せに「したい」という意図に共感する。決してIT革命自体は、幸せにつながるものとして生まれたものばかりではないと思っている。幸せにしたいという意図、そう使いたいという意思に、共感するが、実はもう一つ僕が感じていることがある。
今の会社、経営者、そして会社員、労働者という立場構図(もしくは組織構図)自体が変容するという見方をしているのだ。(これは別の機会に論じたい。)
ビジョンにテーマを戻す。
先日、youtubeで、面白い議論を見た。
景気対策、そして教育、そして国家の戦略として、国民全員が、2ヶ月間の「バカンス」が持てるように法整備をという提案の議論だ。当然、分散しての2ヶ月間のバカンス。
直接的には、観光産業がまず恩恵を受ける。そしてその人材やインフラの整備が求められる。
さらに、このバカンスを通じて、観光、レジャーだけでなく、例えば、何かの学習や、技術の習得に向かう人々もいるだろうし、集中して介護や、病気の療養に当てる人、普段は出来ないボランティアや、異業種、例えば農業体験なども実施出来るだろう。バカンスから生じる、波及効果、経済効果、人材育成教育の効果の試算が提示され、そしてバカンスから生じる、人々のライフスタイルの変化、仕事への取り組み、病気、特に精神疾患への波及効果に至るまでのスライドが続いたと記憶している。
実施する政策としては、シンプルな「2ヶ月間のバカンス」ではあるが、ビジョンとしては大きな提案と受け止めた。
今、日本に求められているのは、構造を改革するということ。
つまり、今まで変えにくかったものを変える。
今まで変えにくかった訳であるから、相当周到な計画が必要だ。
今までのがんばりで成果が出なかった訳だから、がんばるところを変えないといけない。
この2ヶ月間のバカンスの法整備の提案には、賛成意見が多いかと思いきや、現実には無理という意見が大勢を占めていた。一瞬、脳みそが巡る。現実には無理という理由が、全くおかしい。
ビジョンは、現実に無理という判断をするべきものであると判断されていることの構図が、おかしい。
もし提案が、現実に実施することが容易ならば、すでに出来ている。
今の課題の解決には、ビジョンが必要で、ビジョンを提案すると現実には無理という反応が出る。
論理的思考以前の問題だ。
こりゃ、革命でも起こさないと変わらない。か?
従来の道順では出来なかったことを変える。革命での思考。
19世紀ならば、解決に武力を行使したのだろう。国と国の戦争だけではなく、社会主義革命のような戦いも「武力」だ。
民主主義は、非常にコストのかかる統治の方法だ。
まず議論で、話し合いで物事を決める。決着は多数決であったり、する。その際、少数意見に対しての議論の余地を残す。
よって、民主主義スタイルで「革命」を起こすことは、人類にとって、まさに「革命的」なエネルギーが必要である。
論理的思考がもてはやされている。
論理的思考は、分析には向いているが、実は革命には多少向いていない。
ビジョンは、実は論理的思考だけでは、構築できない。
いわば、法螺(ほら)的要素が含まれるからだ。夢物語、そして空想の要素があるということだし、それがないビジョンは非常に乾燥した、無色透明のようなもので、人の心を捉える魅力に欠ける傾向にある。
そして、やっかいなことに、先に書いた、人は存在意義を否定されたくない生き物だということが、議論を水の泡にする。
現状の改革は否定から入る。否定されたくない立場の人が、否定を否定する。
こまった、囚人のジレンマ的、にっちもさっちもどうにも、こうにもブルドック状態。
では、民主主義スタイルで革命は絶望的なのか?
カリスマや、メッセージ力の強い、アジテーショナルな指導者が、いわば「煽動」する形でないと無理なのか?
教化では、革命は起きても、その先に「LIFE」はない。もしくは直結しない。
教育か?必要条件ではあるが、今や心もとない。
何のために存在し、生まれ、人生をどう「見る」のか?
そして、何を持って、生き様を「よし」とするのか?
人生を考えようというテーマ。
そしてここ最近、頭の中にある「大いに議論をしよう」というテーマ。
健康をテーマに話をすると、最近はこんな反応がかえってくる。
「健康で長生きをして、何するの?」
「え?」
バブル世代の私は、非常に困惑した。
僕たちの世代は、物欲で生きてこれた。車が欲しい。ギターが欲しい。酒が飲みたい。いい家に、いいマンションに住みたいし、パソコンは欲しいし、大画面のテレビも、全自動の洗濯機も、携帯電話も新機種が欲しい。
これで十分に「生きている」実感が持てた。
最近、仕事の話の打ち合わせをしたときに、先方の担当者が、こうぽつりと話をした。
「仕事に対しての情熱が持てない」
僕は、具体的な返答をしなかった。
「仕事に情熱が持てないならば、クライアントとして引き続き仕事できひんやん」という言葉を飲み込んだ。
最近、思い始めたことがある。
2年後には、一旦日本を離れようと思う。
世界は一体、どう動いているのか?
人々は、何を持って「生きている」のかを取材したい。世界の、それも、実際に生きている人々をじっくりと見てみたい。
僕自身は、50歳代に、人生として、一つ成果を出したいと思っていることがあり、その準備のための40歳代と、まあ最近になってだが、設計のようなものをつらつらと思い始めていた。
世界を見て、どのように社会に向けて関わるのかというものを含めて、ちょっと考えたいし行動したいと思うようになった。
世界を見て歩くための武器。もしくは名刺代わりのもの。フィールド。そんなものを構築したくなっている。
大きなテーマは「LIFE」
人々が何を考えて、どのように生きているのか?
もちろん、国や地域によって、そして宗教や様々な背景により、それは異なると思う。
生き方、教育、仕事、経済、思想、思考。
自ら書きながら、「えらいこと考えているな」という内なる声もする。
「お前、そんなテーマを扱える器とちゃうやろ」という声も聞こえる。
「世の中、社会に対して云々する前に、自分のフィールドさえ、うまく構築できてへんやないかい」
まさに「ぶっ飛んだ夢」ということかもしれないが、何か心の奥で突き動かされるものの卵がある。
僕にとって、何の才能がある訳でもないし、そして、よく雑誌のインタビュー記事に取り上げられる「ひとかどの人」にある悪戦苦闘の青春時代や社会人時代というほどの、武勇伝がある訳でもない。
多くの人に支えられて、多くの人からの「堪忍」を享受して生かされてきているような自分。
それは、どこか高校時代に感じていたことにつながっていて、「やらなかった、のか出来なかったのか」という自問自答に、かなり鋭角的に「やってみよう」と思い立った高校時代の感触につながっている。高校時代は、フィールドは(今から思えば箱庭のような)学校というフィールドだった。
LIFE
「人生は映画のようなもの」とはどこかの偉人の一言であったと思うが、この年になったのだから、ちょっと人生について、それは答えの出ない禅問答のような、テーマに入っていく年になるような、そんな雰囲気を感じながら、もうしばらく、自問自答を繰り返す日々の9月となる感じだ。
日々の感想やアイディアのヒントを記録するためのブログ。あるいは作品の草稿やテーマの整理。全く個人的な記録も含めて、今生きている存在証明の一部。編集しながら校正をして文章を改廃していくことも。
2010年9月4日土曜日
2010年8月31日火曜日
議論
ハーバード大学で白熱教室と呼ばれるサンデル教授が東大で講義を行ったとの報道を読む。
8月は、終戦記念日があり、日本の戦争と、その後の復興の足跡から、今を考えることがある。
最近の20代は草食と呼ばれて、物欲は抑制されていると聞く。
団塊の世代が企業生活を終えて続々と年金生活に入る。
高校のころ、学生運動の世代ではなく、全く世代は2つも違う僕らが、夏休みに「議論」をするキャンプを主催していたことがある。議題は、平和について、男女間で友情は成立するか、なぜ学ぶのか?など多岐にわたるが、議論は白熱した。
議論をすることが減っている気がする。
誰もが「答え」を求めたがるし、おりこうさんの「生徒」になりたがる。
物事には「答え」「正解」が存在し、その正解を身につけることが「正解」なのだろうか?
高校時代から、すでに20年以上も経過して、一応社会生活をしてきて思うこと、
それは「正解」がないことのほうが多いという実感。
なのに、日本の最近は、政治も、会社も「議論」をしない。もしくは「避けている」
「議論」は意見の対立を背景に、問題の本質の合意を求めて行うものではあるが、
その意見の対立が苦手になっている。
議論の方法のひとつに「賛成側」と「反対側」に意図的に分かれて、決められた立場から意見を述べるという手法がある。
一定時間を経過すると野球の攻守交代のように「賛成側」と「反対側」を交代し、やはりその立場から意見を述べる。
つまり、前半と対立する立場から、後半は意見を述べることになる。
ここには、「正解」か否かという視点はなく、テーマについて、深く思考するために、議論が存在する。
サンデル教授の本を今読んでいる。
正解が示されず、議論と思考を求められる読書は、確かに結構きつい。
なぜそう思うのか?その思いの根拠となる思想は何か?それは矛盾がないか?
一つのテーマだけを議論していると見えて来にくい、根拠と思想は、
複数の異なるテーマを論ずるうちに、根拠としている思想、背景が揺れてくることがある。
先ほどのテーマでは、Aという立場から論じていて、Bと言う視点はおかしいという指摘を論じていたにも関わらず、
次のテーマでは、Bという立場から論じているということが、本人の意識を越えて発生するのだ。
そこで、改めて、論じている本人も、思考を深めていくことになる。
高校の時の議論で体感したことは、僕自身が、本来当然好きだと思って(思い込んでいた)視点が、実は、表層的で、
矛盾を抱えていることを自己発見する「衝撃」だ。さらに、そこからその議論を通じて、あたらな視点(より深い視点、もしくはより本質的な視点)に出会ったときの「楽しさ」だった。
テーマ自体は、やはり高校生だから、幼稚ではあったかもしれないが、
その「知的興奮」のようなものは、社会生活を経験するうちに、置き忘れてきた感がある。
情報があふれてきて、そして大人になると自分自身の判断に自分自身で決着をつけるべきものではあるが、
知らないうちに「社会の正解」「会社の正解」を知り、それに従順であるもしくは、単に反発することという回路が出来てくる。
「議論が出来るイベントはできないか?」
議論を議論するのではなく、議論を体験することで得られる体験(エクスペリエンス)をイベントできないか?
20世紀の学生運動の回帰ではなく、そしてウェブで見られる書き込み、コメントのようなものではなく、
何かを決める会議ではなく、議論。テーマが次々を現れていく議論。
哲学や宗教観、人生観、仕事というもの。恋愛、環境、教育、生活。
議論を通じて、皆が考え、そしてその考えを深めていくような体験のイベントが出来ないかと思たりする。
生活、仕事、人生にとって、議論は大変面白い手法になりうる。
知的興奮を体感してみると、この知的興奮は、人間に与えられたものだと、なんとなく体感できる。
そして正解を求めることが、いかに安易かもわかる。
議論をイベントに組み立てできるようなプロデューサーがおられたら、一度お話を聞いてみたい。
8月は、終戦記念日があり、日本の戦争と、その後の復興の足跡から、今を考えることがある。
最近の20代は草食と呼ばれて、物欲は抑制されていると聞く。
団塊の世代が企業生活を終えて続々と年金生活に入る。
高校のころ、学生運動の世代ではなく、全く世代は2つも違う僕らが、夏休みに「議論」をするキャンプを主催していたことがある。議題は、平和について、男女間で友情は成立するか、なぜ学ぶのか?など多岐にわたるが、議論は白熱した。
議論をすることが減っている気がする。
誰もが「答え」を求めたがるし、おりこうさんの「生徒」になりたがる。
物事には「答え」「正解」が存在し、その正解を身につけることが「正解」なのだろうか?
高校時代から、すでに20年以上も経過して、一応社会生活をしてきて思うこと、
それは「正解」がないことのほうが多いという実感。
なのに、日本の最近は、政治も、会社も「議論」をしない。もしくは「避けている」
「議論」は意見の対立を背景に、問題の本質の合意を求めて行うものではあるが、
その意見の対立が苦手になっている。
議論の方法のひとつに「賛成側」と「反対側」に意図的に分かれて、決められた立場から意見を述べるという手法がある。
一定時間を経過すると野球の攻守交代のように「賛成側」と「反対側」を交代し、やはりその立場から意見を述べる。
つまり、前半と対立する立場から、後半は意見を述べることになる。
ここには、「正解」か否かという視点はなく、テーマについて、深く思考するために、議論が存在する。
サンデル教授の本を今読んでいる。
正解が示されず、議論と思考を求められる読書は、確かに結構きつい。
なぜそう思うのか?その思いの根拠となる思想は何か?それは矛盾がないか?
一つのテーマだけを議論していると見えて来にくい、根拠と思想は、
複数の異なるテーマを論ずるうちに、根拠としている思想、背景が揺れてくることがある。
先ほどのテーマでは、Aという立場から論じていて、Bと言う視点はおかしいという指摘を論じていたにも関わらず、
次のテーマでは、Bという立場から論じているということが、本人の意識を越えて発生するのだ。
そこで、改めて、論じている本人も、思考を深めていくことになる。
高校の時の議論で体感したことは、僕自身が、本来当然好きだと思って(思い込んでいた)視点が、実は、表層的で、
矛盾を抱えていることを自己発見する「衝撃」だ。さらに、そこからその議論を通じて、あたらな視点(より深い視点、もしくはより本質的な視点)に出会ったときの「楽しさ」だった。
テーマ自体は、やはり高校生だから、幼稚ではあったかもしれないが、
その「知的興奮」のようなものは、社会生活を経験するうちに、置き忘れてきた感がある。
情報があふれてきて、そして大人になると自分自身の判断に自分自身で決着をつけるべきものではあるが、
知らないうちに「社会の正解」「会社の正解」を知り、それに従順であるもしくは、単に反発することという回路が出来てくる。
「議論が出来るイベントはできないか?」
議論を議論するのではなく、議論を体験することで得られる体験(エクスペリエンス)をイベントできないか?
20世紀の学生運動の回帰ではなく、そしてウェブで見られる書き込み、コメントのようなものではなく、
何かを決める会議ではなく、議論。テーマが次々を現れていく議論。
哲学や宗教観、人生観、仕事というもの。恋愛、環境、教育、生活。
議論を通じて、皆が考え、そしてその考えを深めていくような体験のイベントが出来ないかと思たりする。
生活、仕事、人生にとって、議論は大変面白い手法になりうる。
知的興奮を体感してみると、この知的興奮は、人間に与えられたものだと、なんとなく体感できる。
そして正解を求めることが、いかに安易かもわかる。
議論をイベントに組み立てできるようなプロデューサーがおられたら、一度お話を聞いてみたい。
登録:
投稿 (Atom)