2010年7月22日木曜日

全体を把握することは難しい

世界の情報に触れることが多くなった。(そんな機会をたくさん得ていることに感謝いたします。)

数々の「事業」のオーナーや自営業者さんや、そして大きな組織のリーダーの方々ともお話をする機会が多くなった。
世界を市場にしている方は、視点が、視野が広い。そして本質的な「流れ」をつかもうとされて全体像の把握力の話になることが増えた。

ホームページを制作する場合、多くの場合は、事業やサービス、商品、社員、事業の方向性など、基本的にプロジェクトの動きをすべて把握する必要に迫られることがある。僕自身の知識や経験だけでは、カバーしきれない場合(ほとんどがそうであるが)統計や白書的なものを調べたり、マーケットをリサーチしたり、場合によっては専門と呼ばれる方に取材をする必要に迫られる。

笑えない話がある。ホームページを担当していると、各部署の担当者がほかの部署の情報を、僕に訪ねてくることがある。
つまり、僕に(ホームページに)情報や集まっているからだ。
「そんなの直接聞きなさいよ」と思うが、これがそうも行かない。

実際のホームページに表現できる「公開情報」の下部に「水面下の情報」というものがある。
ホームページの制作には時間がかかるものが多い。
プログラムなどが加わると、準備過程から公開を目指して数ヶ月前から、順次制作打ち合わせに入ることが多い。

これは、いつも今までの仕事においても、感じてきたことだ。
特に商品企画やこれから作ろうとしているプロジェクトについては、水面下であるから、公開されることは少ないし、どちらかというと守秘義務をもとに情報が漏れないようにする手だてがはかられる。よって同じ企業内、組織内でも、ほかの部署には内密でことが進んでいる場合がある。

情報が分断される。分割されて動く。
だから全体を把握されて共有されていくことは、結構(非常に)難しい。

全体像を把握することは、プロジェクトや企業、組織を動かすときに重要になるテーマである。

ところがこれが一番やっかいだ。

必ずと言っていいほど、情報は分割されて担当分野に分かれていく。そのような手法が一般的だ。

そしてもう一つ全体像の把握を困難にさせるものがある。

これはコミュニケーションの問題だ。
全体像というものは、いろいろな要素が複合的に絡み合っている(関係し合っている)のが本来なので、全体像を把握するには、複雑な要素の関係性を解いていく必要に迫られるが、複雑な関係性をそのまま表現すると、本来複雑なものだから、論点が伝わりにくくなる。

論点が複雑になると、意見交換が難しくなるから、出来るだけシンプルに伝えようと、現実の複雑に入り乱れた要素を、シンプルに、最大公約数にまとめて伝える。
その最大公約数を聞いた人々は、本来、一旦そのシンプルな構成から、現実の複雑な要素を再構成して検討する構図が必要なはずだが、いつしか、そのシンプルな発信は、シンプルな反応しか得られなくなり、現実の要素がバラバラになって、全体像がぼやけてくる。理解しやすいようにシンプルにした時点で、本質から変質しているかもしれないという原則が無視されていく。

全体像がぼやけてくると、各要素ごとに、シンプルな反応が繰り返されて、いつしかその世界はバラバラに動くようになる。

この国は、複雑な要素を再構成する「力」を失って、企業も、行政も、人々はみな、「分割された要素」の中で溺れている。
誰も全体像を把握し得ない。難しい話は共感し得ない。

細かく分割された要素が、バラバラに相手を批判する。
シンプルな主張しか、理解、共感は得られない。こまったことに、おおよそ、シンプルにまとめられて分割されたものを、単純に寄せ集めても、それは全体にはならないことが多い。

これは現代だから起きている問題だと思う。

つまり、100年前ならば、分野に分割されても、分割される要素が少なかったんだと思うからだ。よって、100年前ならば、企業も社会生活も、要素がそんなに多くなかった。例えば家の中にある「モノ」も少なかったし、社会全体として「職業」も少なかったし、きっと病気の数も、そして起きる事故の種類も、問題、課題の数も、現代は実に加速度的に要素の数が増えているのだ。

そんな変化の量と、スピードが分割して考えることのキャパを超えたのだと思われるが、手法としては依然として、例えば行政ならば縦割りの分割のままだし、医療の診療も同じく分割された「◎◎科」(総合診療科なるものも登場しているらしいが)、農業も、企業も、分野を分割して、人々は分割された要素の中の一つを担当させられて、ほかの要素はわからなくなっていく。

複雑な全体像を、今は理解できないが、なんとか理解し得るために「汗をかく」ことが評価されない。

全体像は本来、要素が入り乱れるから、複雑で、瞬時に理解できない訳だから、すぐに理解できないことが存在していていい。あるいは、すぐに理解できるような「レベル」のものは、実は非常に軽いものである可能性さえある。

むろん「正解」などはあり得ない訳だから、世界観、全体像の把握力、分解力、のようなものが育成されないければならない。

ここに一つの僕の論点がある。

時代は、「スピード」を求めているが、時間をかけて検討することの評価が少し世間と僕とのずれを感じるのだ。
もちろん、じっくり100%では、物事は逆に進まない。
しかしスピード100%でも、拙速と幼稚なる現実と向き合うことになる場合も出てくる。

本物は時間をかけて推敲されて、練られていく。(のだと思う)
特にプロジェクトや組織体での物事の動きの構築には、必要な時間というものがある。


時間をかけて理解する。読み解こうともがく、あるいは推測しようと試みる。
時代のスピード感が上昇して、ある一定を超えていく感がある。
時代が、早すぎる。のかもしれない。
だから複雑な全体像を把握する、じっくり腰を据えて思索するということが、時代遅れになったのかもしれないが。

しかし全体像やビジョン、コンセプト、目的のたぐいのものは、繰り返し時間というものの栄養を得た上で、太く大きな幹になるものなんだとも思うが、結局は、そうかたりながら、時間とスピードに(期限に)追われて、いく現実。

残るは、時間とも戦い、脳みそが汗を書くまで考え続ける歩みを止めないということになる訳であるが。。。

2010年7月20日火曜日

サイズ

龍馬伝を見ている。幕末とはどんな時代だったのかを、龍馬を透かして見る。
狭く地政学的に、国境が自然と定められたように成立した日本。
そして当時の藩には、従うべき幕府という「お上」だけに焦点を当てていればよかった時代が続いたあと、外国という、幕府以外のものに焦点があたったときに、人々は、困惑したに違いない。

人は、従うべきものが明確で、かつ唯一のもののとき、安心して従う傾向にある。
ところが、それが複数現れたとき、従うべきか、自分はどう思うのか、ほかのものはどうなのか、と一様に困惑する。

支配とその支配から派生する秩序は、一定の範囲において人を安定状態におくことが出来る。
その秩序が乱れていると判断された場合、その支配と秩序は螺旋状に下降に向かい、そしてその下降を押しとどめようとする反作用のエネルギーと、あいまみえて渦のような、振り子のような情勢を作り出す。

幕末はそんな様相と見えた。そして現在も。

「国」「国家」という概念が、今後も存続しうるかどうかは、僕にはわからない。わからないという感覚は、つまり、存続し得ない可能性を感じるということを含む。

幕末、黒船来航があるが、一つの支配構造から、ほかの圧力がかかり、その支配階層が揺れているという認識が、非常に幕末のそれぞれの動きに影響を与えていて、結局その文脈から発生するエネルギーの集結が明治維新ということも言える。

注目するべきは、黒船来航自体は、実は単なる「引き金」の事象で、幕末に残された文献を見ると、その黒船来航に対しての幕府の反応の「揺らぎ感」「動揺感」が、人々に不安を与えたということが注目される。

組織やグループにおいて置き換えるとわかりやすい。
いかなるときも、リーダーが一つの指針を明確に打ち出し続けると、結果として、その組織が敗北や崩壊に至るとしても、組織の構成員からの「動揺」は少ない。
(ここで、リーダーが「動揺」すると、反作用で、「どないかしないといけない」という改革の旗手が登場する土壌を作り、その組織は、ある意味、再活性化するという可能性があるが、結果論としていいか悪いかは別にして、リーダーの動揺がない組織においての秩序は一定のレベルに保たれるという)


幕末の人気と、今の世相が似ているが、
実は、一つの支配構造から、ほかの圧力がかかり(までは似ている)が、次の段階、その支配階層が「揺れている」感が、今の日本には実感覚として希薄の感じを受ける。

つまり、なんとなく統治され、なんとなく統治能力が低下している様相。
つまり、なんとなく、カエルがゆでられている状況。


この現象は、今の日本にとって結果論として「いい」のか「悪い」のか?

破滅思考のよな感じの思いがよぎる。

いっそのこと、治安がもっと悪化して、明らかにリーダー不在の様相ならば、世の中は変化するのではないか?

非常に危険な思考ではある。
かのカルト宗教の主張の一端にも似ている。
歴史には、同様な思考が、現実になっている記録が山とある。

深刻なリーダー不在でしか、変革は生まれないのか?

不安定なビジョンの欠如から派生する、秩序崩壊からしか、未来は構築できないのか?

変革のテーマになると、必ず登場する意見がある。

「何かを変えないといけないが、何から手をつけていいかわからない。」
「自分ひとりが声をあげたところで、結局何も変化しない感覚。」
ということは、組織論的にいうならば、国家や人口、規模が、でかすぎるということになる。
人民にとって、コントロールできない規模ということだ。

もし、日本という国が、組織として大きいならば、
分割して、コントロールできる規模に組み替えない限り、変わらない。


地方分権が叫ばれる。日本という「国体」が揺らぐ。

「適切に変化成長できる「サイズ」は、そこに関わる人の能力に依存する」(組織論の公式)

関係するサイズ、温度が体感できるサイズ、自分の力が影響するサイズ。

サイズの規定が、一つのテーマになり得ると思うが、誰か研究しているのかなあ。