「プロジェクトスタイル」の仕事の進め方について考えたことがある。
日本では、プロジェクト思考の仕事というものは、結構少ない。
言葉としての「プロジェクト」というものは今たくさん出現しているが、ある目標達成を前提に、人材を所属(会社、地域、団体)を越えて集合させて、チームを編成して目標達成に最適解を求めるという仕事の進め方は非常に少ない。
まずは所属の問題がある。仕事に対して継続性があるものを求める日本社会は、実際には同じ会社の所属でありながら、シーズンによって異なる分野の仕事をすることがある。これは転籍や転勤というスタイルで企業内の人材を最適と思われる配置を行うことによって効率的に事業を推進しようとする動きである。
しかし、ある事業目標について必要なスキルを考えたときに、特に新規事業の場合にその事業推進に必要なスキルを持ち合わせた人材がいつもその企業内に存在しているとは限らない。でつまり人材をアウトソーシングで埋めるという選択肢が出来る。
コンサルティングの会社が少ない。というのも、アイディアなどの目に見えないものに対価を支払うことというものに慣れていない。
コンサルの企業は山ほどあるが、その企業の収益構造は、アイディアやリサーチ、レポートを出版の形にするか、何かの企業勉強会集団を構築するか、一定のプログラムに基づくフランチャイズ展開をはかるかというものが多く、実際のプランやアイディアに対価を求めるといいスタイルでは利益が獲得できにくい。つまりコンサルティングを通じて何か差別優位性のある「商品」を流通させていくところがほとんどである。(そのスタイルを否定するものではない。これぐらいアイディアだけで市場の存在することは難しいということ)
異なる企業、人材を集めて目標達成志向の「プロジェクト」を構築することは、その人材の「所属」つまり誰が給与を支払っているのかということや、誰がリーダーなのかとかチーム構成の各部分で障害が発生するもの。
プロジェクトスタイルでの問題は多岐にわたるが、日本の「組織理論」が一つの社会、家族、国のようなイメージで成立していて、期限が決まった目標達成志向での組織というもの自体が、社会としてそんなに必要になったことがないからかもしれない。
日々の感想やアイディアのヒントを記録するためのブログ。あるいは作品の草稿やテーマの整理。全く個人的な記録も含めて、今生きている存在証明の一部。編集しながら校正をして文章を改廃していくことも。
2008年9月18日木曜日
2008年8月23日土曜日
これからの仕事
オープンソースのプログラムには一体どんな特徴と仕組みがあるのかということが長く疑問だった。
利用する側からしたら、無料で活用できるフリーソフトのようなもので、そこにいわゆる経済的な活動が入るようなステージのものではないと思っていて、自分の時間の投資を行って、何かのプログラムのソースコードを書く、発表することによる見返りは経済ではなくて精神的な充実ともいうべきものなんだろうと。
ところが、ちょっと発想の視点、見下ろす場所を変えて見てみると、オープンソースが成立している現象は、これからの人類の活動のモデルとして大きな示唆に富むものなのではないと言う気がしてきた。
僕はプログラムのソースを書いたりすることはほとんどなくて、出来てホームページの簡単なHTMLをなぞる程度しかしてみたことはない。
なので、直接的なオープンソースというものにコミットするようなものではない。
オープンソースでモノ(この場合はプログラム)が不特定多数の人の関与によって出来上がり成立しているという構図、言い換えればこのような物事の進め方のスタイルに興味がある。
ウェブはまるで成長期の子供のように変化が激しく、専門的で複雑な世界と映る。
どこで経済が機能していて、企業と個人が同じようなフィールドにいて、様々な価値観と個人が共有、もしくは対峙している空間だ。
ある意味の秩序はないに等しく、一種のフロンティアに近い空間で、面白きもの、機能的に優れているものから、本当に単純につまらないものまでが一緒の空間に存在している。僕たちが幕末やローマ帝国の歴史をみるとき、ある理論なり構成要素なりをものさしにして、一つの過去の事実を系統たてて流れで見ていく。しかし今起こっていることは変化の結果や、その変化から誘発されて次の展開を見せるようなこの先の顛末が今わかるわけではないから、一体何が起きているのかを把握することが難しい。
ウェブの世界は、いわゆる門外漢の僕が感じるには、とてつもなく大きなインパクトをキット与えることになるような革命になっていくことだろう。まあ、「革命」についての特にその革命のインパクト強度のレベルについて、この変化は大変化になる!というものを規定することは難しい。
難しいが、今までのスタイルが変化する、今までの価値観が、重要課題が、優先順位が、守るべきものを考えられている大義が、変化するということにおいて革命というものに強弱はない。
なにやら、意味不明を書いてしまった。
ちょっと価値観や目線の変改についてのイメージが降りてきた一日であったが、明確に消化しきれていない。
もう少し調査が必要なんだな。
利用する側からしたら、無料で活用できるフリーソフトのようなもので、そこにいわゆる経済的な活動が入るようなステージのものではないと思っていて、自分の時間の投資を行って、何かのプログラムのソースコードを書く、発表することによる見返りは経済ではなくて精神的な充実ともいうべきものなんだろうと。
ところが、ちょっと発想の視点、見下ろす場所を変えて見てみると、オープンソースが成立している現象は、これからの人類の活動のモデルとして大きな示唆に富むものなのではないと言う気がしてきた。
僕はプログラムのソースを書いたりすることはほとんどなくて、出来てホームページの簡単なHTMLをなぞる程度しかしてみたことはない。
なので、直接的なオープンソースというものにコミットするようなものではない。
オープンソースでモノ(この場合はプログラム)が不特定多数の人の関与によって出来上がり成立しているという構図、言い換えればこのような物事の進め方のスタイルに興味がある。
ウェブはまるで成長期の子供のように変化が激しく、専門的で複雑な世界と映る。
どこで経済が機能していて、企業と個人が同じようなフィールドにいて、様々な価値観と個人が共有、もしくは対峙している空間だ。
ある意味の秩序はないに等しく、一種のフロンティアに近い空間で、面白きもの、機能的に優れているものから、本当に単純につまらないものまでが一緒の空間に存在している。僕たちが幕末やローマ帝国の歴史をみるとき、ある理論なり構成要素なりをものさしにして、一つの過去の事実を系統たてて流れで見ていく。しかし今起こっていることは変化の結果や、その変化から誘発されて次の展開を見せるようなこの先の顛末が今わかるわけではないから、一体何が起きているのかを把握することが難しい。
ウェブの世界は、いわゆる門外漢の僕が感じるには、とてつもなく大きなインパクトをキット与えることになるような革命になっていくことだろう。まあ、「革命」についての特にその革命のインパクト強度のレベルについて、この変化は大変化になる!というものを規定することは難しい。
難しいが、今までのスタイルが変化する、今までの価値観が、重要課題が、優先順位が、守るべきものを考えられている大義が、変化するということにおいて革命というものに強弱はない。
なにやら、意味不明を書いてしまった。
ちょっと価値観や目線の変改についてのイメージが降りてきた一日であったが、明確に消化しきれていない。
もう少し調査が必要なんだな。
2008年8月19日火曜日
異なるものへの対処と大義
人が、他人の事を否定して、突き詰めて暴発的に殺人になったりしている。
一部の成功哲学のようなものが、人生思い通りという表題をつける。
表面的、短絡的な思考、もはや思考というべきプロセスがないままの衝動と言っていいような事件が続く。
自分と他人の境界線が直線のブロックなってしまっていて、その間にある川のような緩衝帯が人工的なデジタルの加工とともに姿を消している。
何か自分の思い通りにならぬ出来事に対する思考のプロセスが、一種のデジタル信号に変換されてしまって、
白か黒かの2択になっている。白か黒かと2択を迫ると、自分と違う答えは、もはや自分の存在をおかす危険な答えとなって現れてしまう。
そして間違いは消去していく作業が、いとも簡単に行われている感覚だ。そして白でもない黒でもない、グレーの部分がエラーと見える。
というか本来、色にはもっと多くの色がある訳で、人の数だけ色がある。
日本人の歴史と環境は、本来多色である人の個性を「まったくおもしろいやつがいる」「手に負えないやつだ」と「許す」文化を持っていた。
それは長く続く江戸時代にも、罪人に対する流罪であったり、直線的に命を否定するのではなくて環境を移すということで
一つの緩衝帯を設けていた。許す文化という側面は、暗黙の了解であったり、本音と建前であったり、あいまいな表現という事でも現れている。
戦後、日本には民主化という波の中で、そしてその後の経済成長の中で
そのあいまいさ、緩衝帯がなにか時代遅れのもののように取り払われていったのか。
みんなが同じ人間であるという基本的人権は、近代の貴重な価値観である。
存在という意味では、1人の命は平等である。
でもみんなが同じ事を考えるということとは異なる。
その同じ事を考える、同じような行動を取るということではない。
日本には方言があり、地方独自の文化がある。地方ごとの特産物も気質も異なる。
「異なるもの」に対するものの捉え方が急速に窮屈になっている感覚を覚えるのは、僕だけか?
多くの出来事が、自分の思い通りには進まない。特に他人の行動を動かす事はできないことが多い。これは影響力の問題だ。
影響力は自分の想定通りには働かない。発信側の都合ではなく受信側が影響力を決めていくからだ。
発信側に意図があり、その影響力の公使を期待して発言をしたり、行動をしたりする。
人には経験、感性、気分、と3つの物差しがあって、その構成比率も、そして反応の敏感な分野、テーマもそれぞれが異なる。
何も意図を持たない些細なひと言が、相手にとってこゝろを突き刺したり、鼓舞したりすることがある。
それは影響力が受信側の物差しやタイミングによって意図を越えた偶発的なものであるからだ。
人に対して何かをしてほしい、こう動いてほしいという希望を実現させていくには、
祈る、願うしかない。
そしてもう一つ、かのように意見や感性の異なる人をまとめあげるには、正論よりも大義が必要だ。
大義という意味が難しければ、コンセプトやビジョンと置き換えてもよい。
昔は正論で人をくくることができたかもしれないが、今は人の数ほどの正論が発生していて
価値観の多様化と言えば聞こえはいいが、実際の所、人との差別性、固有性が人の欲望から発生しているのであれば、
時代が積み重なるにつれて価値観や正論たるものの数が増えていく。
では、大義は何をもって表すことが出来るのか?
それはきっと希望やロマンや、いわゆる言葉の弊害を恐れずに言うなれば一種の法螺である。
事実今の現実には何も現れていないものを将来現実として現れると希望するのだから、それが実際に実現するか否かは、実は保険も保証も全くない。
なので一種の法螺話である訳だ。
近代は、事実と科学の時代が続いた。そしてこれからも事実と科学は基礎的インフォメーションとして機能し続ける。
これから先、事実と科学と法螺の時代が来たといえば、一種の詐欺的なにおいがするのかもしれない。
大義はもう一つ、「かくあるべし」という哲学のようなものを含有する。
つまり大義とは、かくあるべしとの哲学を含み、事実や科学を基礎として、将来の希望を込めた壮大な法螺話ということになる。
人は夢や法螺話に、一種のロマンや希望を見いだす。
半信半疑の感情を片手に持ちながら、希望を指差す。
そして法螺話を吹くものを、大きな世界観を持つ者と錯覚する。
だから有史以来、多くの人々が、詐欺にあったり、謀略にはまったりしてしまう。
人が事実と客観的なもの、例えば事実の科学、数値、だけで判断していく冷静な生き物であるならば、世界はもっと秩序だっていて、
しかしドラマ少ない面白くはない歴史になっていたことだろう。
客観的な科学的見解が面白くないのは、これが事実であったとしても、ロマンや夢や法螺をかすめてしまって、
希望、つまり変化を夢見ることが出来なくなるからかもしれない。
大義は大きな世界観であっていい。
主観的なイメージや法螺話であっていい。
志を持って、大義を語るとき、そしてそれを聞くときの作法として、
客観的事実などを持ち出して、その大義の実現可能性についての可否を問うてはならない。
それは野暮というもの。その境界の隙間を楽しめてこその人生と思う。
主観的な大義が、多くの人を包み込む。
そして個々の個性が多色に輝く。
異なるものへの緩衝帯と、共有できる大義の2重の含有が、
これからの思考のプロセスには必要なのではないか?
きっと新しい時代に入っているのだと思う。
2次元的に思考を展開しなければ、ならない。
自分の主義主張を唱えつつ、大きな大義のもとに集まるグループが出来るが、
個々の個性は輝いて、そして大きな波を創り出すような感覚。
世界はその価値観に向かっている。
しかし日本は大丈夫か?
一部の成功哲学のようなものが、人生思い通りという表題をつける。
表面的、短絡的な思考、もはや思考というべきプロセスがないままの衝動と言っていいような事件が続く。
自分と他人の境界線が直線のブロックなってしまっていて、その間にある川のような緩衝帯が人工的なデジタルの加工とともに姿を消している。
何か自分の思い通りにならぬ出来事に対する思考のプロセスが、一種のデジタル信号に変換されてしまって、
白か黒かの2択になっている。白か黒かと2択を迫ると、自分と違う答えは、もはや自分の存在をおかす危険な答えとなって現れてしまう。
そして間違いは消去していく作業が、いとも簡単に行われている感覚だ。そして白でもない黒でもない、グレーの部分がエラーと見える。
というか本来、色にはもっと多くの色がある訳で、人の数だけ色がある。
日本人の歴史と環境は、本来多色である人の個性を「まったくおもしろいやつがいる」「手に負えないやつだ」と「許す」文化を持っていた。
それは長く続く江戸時代にも、罪人に対する流罪であったり、直線的に命を否定するのではなくて環境を移すということで
一つの緩衝帯を設けていた。許す文化という側面は、暗黙の了解であったり、本音と建前であったり、あいまいな表現という事でも現れている。
戦後、日本には民主化という波の中で、そしてその後の経済成長の中で
そのあいまいさ、緩衝帯がなにか時代遅れのもののように取り払われていったのか。
みんなが同じ人間であるという基本的人権は、近代の貴重な価値観である。
存在という意味では、1人の命は平等である。
でもみんなが同じ事を考えるということとは異なる。
その同じ事を考える、同じような行動を取るということではない。
日本には方言があり、地方独自の文化がある。地方ごとの特産物も気質も異なる。
「異なるもの」に対するものの捉え方が急速に窮屈になっている感覚を覚えるのは、僕だけか?
多くの出来事が、自分の思い通りには進まない。特に他人の行動を動かす事はできないことが多い。これは影響力の問題だ。
影響力は自分の想定通りには働かない。発信側の都合ではなく受信側が影響力を決めていくからだ。
発信側に意図があり、その影響力の公使を期待して発言をしたり、行動をしたりする。
人には経験、感性、気分、と3つの物差しがあって、その構成比率も、そして反応の敏感な分野、テーマもそれぞれが異なる。
何も意図を持たない些細なひと言が、相手にとってこゝろを突き刺したり、鼓舞したりすることがある。
それは影響力が受信側の物差しやタイミングによって意図を越えた偶発的なものであるからだ。
人に対して何かをしてほしい、こう動いてほしいという希望を実現させていくには、
祈る、願うしかない。
そしてもう一つ、かのように意見や感性の異なる人をまとめあげるには、正論よりも大義が必要だ。
大義という意味が難しければ、コンセプトやビジョンと置き換えてもよい。
昔は正論で人をくくることができたかもしれないが、今は人の数ほどの正論が発生していて
価値観の多様化と言えば聞こえはいいが、実際の所、人との差別性、固有性が人の欲望から発生しているのであれば、
時代が積み重なるにつれて価値観や正論たるものの数が増えていく。
では、大義は何をもって表すことが出来るのか?
それはきっと希望やロマンや、いわゆる言葉の弊害を恐れずに言うなれば一種の法螺である。
事実今の現実には何も現れていないものを将来現実として現れると希望するのだから、それが実際に実現するか否かは、実は保険も保証も全くない。
なので一種の法螺話である訳だ。
近代は、事実と科学の時代が続いた。そしてこれからも事実と科学は基礎的インフォメーションとして機能し続ける。
これから先、事実と科学と法螺の時代が来たといえば、一種の詐欺的なにおいがするのかもしれない。
大義はもう一つ、「かくあるべし」という哲学のようなものを含有する。
つまり大義とは、かくあるべしとの哲学を含み、事実や科学を基礎として、将来の希望を込めた壮大な法螺話ということになる。
人は夢や法螺話に、一種のロマンや希望を見いだす。
半信半疑の感情を片手に持ちながら、希望を指差す。
そして法螺話を吹くものを、大きな世界観を持つ者と錯覚する。
だから有史以来、多くの人々が、詐欺にあったり、謀略にはまったりしてしまう。
人が事実と客観的なもの、例えば事実の科学、数値、だけで判断していく冷静な生き物であるならば、世界はもっと秩序だっていて、
しかしドラマ少ない面白くはない歴史になっていたことだろう。
客観的な科学的見解が面白くないのは、これが事実であったとしても、ロマンや夢や法螺をかすめてしまって、
希望、つまり変化を夢見ることが出来なくなるからかもしれない。
大義は大きな世界観であっていい。
主観的なイメージや法螺話であっていい。
志を持って、大義を語るとき、そしてそれを聞くときの作法として、
客観的事実などを持ち出して、その大義の実現可能性についての可否を問うてはならない。
それは野暮というもの。その境界の隙間を楽しめてこその人生と思う。
主観的な大義が、多くの人を包み込む。
そして個々の個性が多色に輝く。
異なるものへの緩衝帯と、共有できる大義の2重の含有が、
これからの思考のプロセスには必要なのではないか?
きっと新しい時代に入っているのだと思う。
2次元的に思考を展開しなければ、ならない。
自分の主義主張を唱えつつ、大きな大義のもとに集まるグループが出来るが、
個々の個性は輝いて、そして大きな波を創り出すような感覚。
世界はその価値観に向かっている。
しかし日本は大丈夫か?
2008年8月15日金曜日
書いてみたら?
最近は精神世界や成功哲学の本や情報がメジャーになり、オーラという言葉も一般に使われるようになった。いろいろニッキ的なブログを数年やってきて、ひょんな事から友人が「一度考えをブログに書いてまとめてみたら?」という話になった。僕は僕が独特の文章や考え、理論を持ち合わせている訳でもなく、いわば本やインターネットで見聞きしているものをなるほどねと言って読んでいる一般的な読者であったから、自分の文章を書いてまとめていくという発想はほとんどなかった。
まあ、別段、このブログが大人気となって影響力が出るということもなさそうだから、一度チャレンジして見ようかという簡単な動機と、何かを残していきたいなという淡い願望から、このブログはスタートする。
書いてみたら?と言われて書いているような状態で、Assertion : Scenerys viewというタイトルもおかしな話だが、一つ一つ考えを書き起こしてみたいと思う。
今日はちょうど終戦記念日。
僕はまったく戦争を知らない。関心も高い方ではないから持つ知識も一般教養レベルもあるか疑わしいが、あの戦争がなぜ起こり、そしてどのように総括され、今後に何を教訓としていくべきなのかを明確に知らない。もちろん戦争はおこなうべきではない。
勝者と敗者が生まれると、そこに禍根が残り、次の戦いへの種が生まれる。犠牲が出て、悔しさやむなしさがパワーを持つ。
平和が一番ということは誰もが、きっとあの戦争の時代にも人のこゝろのどこかの位置にある感情であるように思う。
愛する家族のためと、国、ふるさとのために、平和を守るというために戦いが起こる。
国と国が戦う、テロリズムと戦う、武力行使には正義と大義が必ずセットされている。
しかし、正義は人の数ほどあるから、正義が「正しい」ということだけでは、特に今後の価値観として希薄に感じる。
とはいえ、明確な指針的価値観を持ち合わせていないから、答えをにぎっていないから、
考えていかないといけないのだと思う。
このテーマについての考察は別の機会に、資料とともにまとめてみたい。
今日は、あの戦いでなくなった魂たちに、役割や政治的な意図、または意義を一旦横におき、ただ純粋にその魂が確かに存在したという事を認識してあげる一日にしたいと思う。存在を認めてあげることと、意義、意味を考察することは次元を分けて考えた方がいいとも感じる。
終戦記念日の正午はそんな思いで黙祷を捧げたい。
まあ、別段、このブログが大人気となって影響力が出るということもなさそうだから、一度チャレンジして見ようかという簡単な動機と、何かを残していきたいなという淡い願望から、このブログはスタートする。
書いてみたら?と言われて書いているような状態で、Assertion : Scenerys viewというタイトルもおかしな話だが、一つ一つ考えを書き起こしてみたいと思う。
今日はちょうど終戦記念日。
僕はまったく戦争を知らない。関心も高い方ではないから持つ知識も一般教養レベルもあるか疑わしいが、あの戦争がなぜ起こり、そしてどのように総括され、今後に何を教訓としていくべきなのかを明確に知らない。もちろん戦争はおこなうべきではない。
勝者と敗者が生まれると、そこに禍根が残り、次の戦いへの種が生まれる。犠牲が出て、悔しさやむなしさがパワーを持つ。
平和が一番ということは誰もが、きっとあの戦争の時代にも人のこゝろのどこかの位置にある感情であるように思う。
愛する家族のためと、国、ふるさとのために、平和を守るというために戦いが起こる。
国と国が戦う、テロリズムと戦う、武力行使には正義と大義が必ずセットされている。
しかし、正義は人の数ほどあるから、正義が「正しい」ということだけでは、特に今後の価値観として希薄に感じる。
とはいえ、明確な指針的価値観を持ち合わせていないから、答えをにぎっていないから、
考えていかないといけないのだと思う。
このテーマについての考察は別の機会に、資料とともにまとめてみたい。
今日は、あの戦いでなくなった魂たちに、役割や政治的な意図、または意義を一旦横におき、ただ純粋にその魂が確かに存在したという事を認識してあげる一日にしたいと思う。存在を認めてあげることと、意義、意味を考察することは次元を分けて考えた方がいいとも感じる。
終戦記念日の正午はそんな思いで黙祷を捧げたい。
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