2010年1月29日金曜日

週末&月末

週末を迎えた。と同時に月末を迎えた。

2010年のはじめての月は、怒濤の流れの中にスタートして、実際ぶっちゃけいろんなプロジェクトは抱えているが、どれもこれもが緒についてばかりで、いかんせんまだまだ姿のイメージは見えてこない。

これは結局、時間の使い方に問題があるのではないかと昨夜は大学ノートを買ってきた。

こう見えて(どう見えているかは皆目わからぬが)ノートをとるということに関しては全く苦手意識はなく、自分でもたくさんメモをとるメモ魔であることは自認にしている。が、ノートに書かれている情報を「活用」しているかということに関しては全くもって自信がない。

今年こそノートやスケジュール帳、そしてアイディアの卵なるメモの数々を活用して見せるぞと毎年のはじめにはたくさんの試行錯誤を繰り返して来た。

ノート術なる本は片っぱしから乱読し、7つの週間手帳、システム手帳、スケジュール帳、ほぼ日手帳、能率手帳、超整理手帳、と数々の起業家さんが発売しているノート、手帳の数々。
そしてアイディアをメモするためのノートの数々。サイズ、手帳サイズ、大学ノート、そしてポストイットから、最近では結局これが一番のデバイスだと自称するに至ったa4の白紙のコピーペーパー一枚まで。
デジタル時代を見越してこれからはパソコンだとパソコンを使うように模索をしてはや数年。
結局パソコンは、仕事では使っているが、日々のノートには立ち上げる時間や電源などのいろいろな諸条件から、使いにくくなって、思いついたアイディアは、レストランのペーパーに書き付けて、その紙を紛失し、携帯のメモに入力したはずなのに、そのメモが上書きされて消え去ったり。

すべからく結局は自分の意識の持ちようであるということになるのだが、ここしばらくは結局、システム手帳(主に備忘的に後から繰り返し見る必要のある情報)、大学ノート(主に仕事の打ち合わせのメモ:時系列&マインドマップが書きやすい)背広の内ポケットに入るサイズのメモ帳(これは幾多の試行錯誤からDELFONICSのROLLBAHNの中とじタイプ(リングタイプではなく)に落ち着いた)とスケジュール帳(これはスケジュール予定&終了覚え書き日記)とさらにA4のコピーペーパー(これはマインドマップや明日のTODOを落書きしている)という使い方が定着しつつある。


僕は昨晩、本当にこの月末にしなければならないことを書き上げて、驚いた。
とにかくあちらのノート、こちらの手帳を机の上にずらりと並べて、あちらこちらに散見するメモや控えを参照しながら、さらにパソコンを広げている自分を客観的に見て、本当に非効率きわまりないなあと自覚したのだ。

頭の中が整理させる前に、これらのノートと手帳たちを整理しなくては、まったく「情報探し」に時間を食っているってことだ。


そして今日は思いついて解決に向かおうとしている。

じゃーん。


それは試行錯誤の結果。



一番使いやすい形に落ちついている現状で、そのまま行こうということだった。

自分の中で、何をどのノートに書くべきかが自動的に認識されている。
問題は集約のパターンだけ書き換えたらいいということに落ち着く。

3つのノートに集約して、
・スケジュール手帳
・システム手帳
・内ポケットに入る手帳

この3つが基軸。

そしてアイディアをふわふわ泳がせるための大学ノート

そしてa4のコピー用紙。(これが一番頭が整理出来る。)

問題は検索性。
過去にも繰り返してぶつかった問題は、検索性の問題だ。

これをパソコンの機能を使っていくことにする。
メモ帳だ。
幸いマックのパソコンは強力な検索機能がついている。
これを使う。


どうどう巡りをして、現状に帰ってくることはよくあるが、
これで、これから月末&週末の整理整頓をして、

より活性化した2月を迎えようとする案配。

仕事がら、アイディアや企画の卵たちが重要なツールであるから、
これらがより生きるようなノート術の旅は、まだまだゴールが見えないが、

自分にあわせたノウハウは、自分で作り上げる試行錯誤が一番という結論。
ノートしたりする内容が個々に違う訳だから、いくらノート術の書籍を読んでも、結局は自分なりの微調整が必要なんだという至極当たり前の結論に至りました。



なぜにブログに書いているかというと、これはもしかしたらまたさまようかもしらん未来の自分に向けてのメッセージということ。

今日、一応の、一定のノートについての試行錯誤に結論を出したぞということを記録しておくためだけに書いている。
失礼。

夢想

情報がたくさんのハードウエアに記録されるようになった。
ホームページ、ブログ、いろんな情報が電子媒体に記録される。

これから数年で膨大なデータが蓄積記録されていき、あと8年後には今までの人類の歴史や書籍、学会発表や絵画、写真などすべての記録が蓄積されるという試算まで出ている。

本当に全部が記録されるようになる否かは定かではない。

が、もしおおむねの情報が記録されたとして、

ひょっとして、

これは水かめ座特有の一大飛躍した妄想になるが、

ひょっとして


これらの電子媒体が電気信号の0と1ですべて読み取れて、
人間の生体反応として、つまり神経伝達物質の信号リレーと同じ仕組みでも
キャッチ出来るようなことになったとして

(もう既に脳波や電子信号を、生体反応と同じ周波数に変換出来る装置なるものは実現可能らしいが)

ひょっとして、


未来では、人の過去情報はすべて読み取り可能になるかもしれないし、

ひょっとして

かのアガスティアの葉なる「人の人生がすべて記録されている」という予言の書籍は
未来には完成していて、

その特定周波数を、たまたまキャッチ出来る特異な人が過去に存在し、
その人が得た情報が、@予言のようになっているのだとしたら、

どうなのだろう。。。。。


まあ、どうにもならぬが。


夢想、妄想劇場の夜。

お疲れさまでした。ゆっくりお休みくださいませということで、
夢想というタイトル。

根拠も確証もない、夢想。


失礼しました。

プロか否か

さて、移動中での会話。

「私ホームページのコンサルはじめたの」
「へーー。お客さんは?」
「商店街の店主さんとか」
「ほうー」
「って、じつは あまり知らないんやけど」
「えーーー」
「相手さんはもっと知らないから(笑)」
「えーいいのお?」
「知りすぎていたところで、相手さんがついて来れないから」
「なるほど」


うん???


お前さん、そんなコトでいいのか!と昭和の僕がココロで叫ぶ。
で、頭ではもう一つ、そうやな、相対的な関係性から見て、それはそれでコンサルや!という声もする。

知らないことを教えてもらうことが価値であり、
知らないコトを分かるように(分かりやすく)教えてもらうコトが重要で、
いくら詳しくても、百科事典の読み上げよろしく知識の洪水に見舞われたところで
結局「で、何からしたらいいの?」ということだから、
相手と自分の相対性で価値が決まると言ってよろしい。

しかも、縁があったから故の出会いであるからして、
その出会いの縁も運と実力。

技術や知識の善し悪しだけで、価値は決定せずといったところか。


最近は起業家コンサルタントと称する方からのメールが舞い込んだりする。
あなたのお仕事の紹介率をアップさせます!から始まり

メルマガで集客とか、いろんなうたい文句での勧誘が来て下さる。

プロか否かという物差しがずいぶんと変化してきた。

昔昔のぶつぶつ交換の法則に似て、結局は自分と相手の相関性の中にお互いの価値を値踏みするということ。

そうすると勢い「人脈の縁」と「プレゼン能力」のいずれかが鍵となり得るが
それは結局プロとして、何を重要視するかということに至る。

お客様と自分との真剣勝負の関係性という枠で見ると、
先の会話も十分に成立するんだな、これ。

2010年1月27日水曜日

強制的な情報って?

さて、何やら頭が回転してきたので、今日も2つ目の投稿。

先ほどの投稿を終えてふと思ったことがある。
前々回の個の発展と、前回のイメージ(残像)のアップデートについてである。

アップデートが重要なのは分かりやすいが、そのアップデートを「どの情報を元に」したらいいのでしょうか?ということだ。
これは非常に難問かもしれない。

インターネットで情報が溢れて、自分にお好みの「検索」をかけていけば情報がランキング表示されるが、ランキング表示の情報の上位が本当に自分のアップデートしたい情報なのかどうかは、何を物差しにして判断したらいいのだ?一体。

ここには前回批判的にコメントしたマスの情報というものが、過去には一定の役割を果たしていると思われる。

わかりやすくするために情報を「セルフチョイス(自ら選択するもの)」と「強制的に飛び込む情報」に分けて考えたい。

マスの、例えばテレビ番組なんかは、強制的に飛び込んでくる情報である。
強制的に飛び込んでくる情報ということは、自分の器の外側、つまり自分の興味の外側にある情報も、飛び込んで来てくれるというメリットがある。

世の中のコトをいろいろと知っているような、広い見識と深い懐を持ち合わせていて、しっかりとした「物差し」が自分の中に確立していたら、情報の取捨選択は比較的簡単だ。

問題は僕のように、自分の興味や知っている見識範囲が「狭い」時に生じる。
これを名付けて「器の小さい自分」としよう。

器の小さい自分が、自分の範囲で情報を選択していくと、非常に偏向した(偏った)情報の中に存在することになる。

これ、今のインターネット情報の洪水で溺れている人々(僕もその一人)という図が出来上がる。

自分の興味の外側にある「面白い」情報とどうやって出会えばいいのだろうか?


インターネットで「検索」をする時に適切な検索キーワードを打ち込めるためには、事前にそれらの情報の元になりうる検索語の知識が必要になる。では全く縁もゆかりもない情報を検索するときには、何と打ち込むの??

例えば、youtubeで「何か面白そうなネタになる動画はないかしら?」と思ったとする。
これだけでは何も検索できやしない。

仮に「面白動画」と打ち込んだところで、面白動画と自らタイトルをつけられた動画は表示されるが、それが僕が面白いと感じる保証はない訳で。

ここに一つ「強制的な情報」「自分の興味の外側の情報」をもたらしてくれるモノが非常に重要ということになる。

つまり、情報は人に帰属して存在している訳だから、ズバリ「人」の関係性ということになる。

人脈の有無、あるいは人脈の「質」ということだ。


それをキャッチ出来る好奇心の養成というテーマが
これからの教育の基本の一つになりうる。

情報リテラシー(情報能力)がこれからの時代に必要だと言われて、インターネットの活用術なる書籍も売上好調らしいが、情報=インターネットと組み立てるのは素早計で、結局は人の持ち方というコトになる。


自分の興味の外側の情報を、しかも信頼できる情報あるいは、自分が面白いと感じる情報をもたらしてくれる人を持つことの幸せを、広くしらしめることが必要かもしれない。

昔テレビ番組で、世の中のいろいろな情報を獲得できた時代。
昔ラジオ番組で、ヒット曲を知ることでヒット曲が育成された時代。
昔映画で、ファッションのかけらを、知らなかった世の中を知ることが出来た時代。

強制的に飛び込んでくる情報と、自分のモノさしで取捨選択する情報を
これからどのようにあつかっていくべきかの問題提起も、実に幅広い問題を内包しているようだ。

ということで、今日はこれまでといたしましょう。

イメージ(残像)

このところ、イメージ(今までの概念)が壊れることがたくさんあるなという事柄について。

テレビ番組が大変だという。僕はテレビを見ない(テレビを置いていない)生活をしてすでにもう8年以上になるが、(テレビを見ないというよりは必要ないということですが)このところの不況でスポンサーが今まで通りの資金をテレビCMに投じることがなくなってきて、制作費が減ったテレビ番組から、どんどん制作費のかからないような番組が目白押しなのだそうだ。

そして中国のイメージ。農薬付けで、自己中心的で、と割にさんざんな中国イメージではあるが、このところぐんぐんと改善を見せていて、かなりの事柄が世界標準として動き始めているというコト。まあ、中国の政治体制はよくも悪くも一党独裁体制であるから、「これ禁止!」「これからは、これ!」と政府のかけ声一発で、ドカンと変化出来る強みも持っている。人権問題にしても環境問題にしても、そして経済にしても、この「かけ声一発でドカンと変わる」という強みは変化の時代に結構あっている可能性がある。あなどれない。。あなどれない。

日本は先進国というイメージについて。
先進国ではあるが、どこか旧態依然のレガシー(歴史的遺物)があるおかげで、まさに過去の強みが弱みになるような感覚が強くなっている。2、30年前にがんばって都市を作ってしまったおかげで、最先端の町づくりをしようにも、まずは前の建物の破壊から入らないといけなくなってしまって、これから都市を作るアジアやアフリカ諸国のほうが、よっぽど環境エコなシステムと先進IT技術が都市に埋め込まれ始めているという逆転現象。今までの街が、これからの街に必要な施設を作るに邪魔をするという皮肉。

カザフスタンの首都の特集を雑誌で見て驚いた。
まるで鉄腕アトムに出てくる未来都市そのものが、こつ然と姿を表していて、太陽エネルギーを中心にした最先端の100万人規模の都市が出来始めている。アジアの中心の、旧ソ連区域の成長センターとして今後は注目されるに違いない。

携帯電話やPCは、これから識字率の低い国へ導入される。
識字率が低いということは、キーボード入力では不便極まりない。そこで入力の方法が「音声認識」に切り替わって導入が始まっている。識字率が低くとも、音声や画像はコミュニケーション可能だ。

今日本の学校教育で、キーボードに慣れるために、出来ればブラインドタッチが出来る子どもを育成しようと授業が行われているらしいが、キーボードを習得したところで、今後に使えるスキルになるかどうかなんて、どうなのよ。

かくいう僕も実は、非常に恥ずかしくってほとんど誰にも言ってないけれど(初の公表に近いな)

ワープロ検定の1級を持っている。(爆笑)

ワープロが使えるのみならず、僕はワープロ検定を受けたいと希望する人に「教えることが出来る」資格を持っている。
(苦笑)

まったく今は用がない。。。。

この際だから資格を白状すると、眼鏡士、補聴器測定師、カラー検定2級、ワープロ検定1級、マイクロソフトのワード、エクセルを教えることが出来る資格(ちなみにバージョンは95。使えないどころか化石に近い)
カラーコーディネーター2級、英検2級(聞き取れるがしゃべれません↓なぜなら日常使用していないから)危険物取り扱い主任者(仕事に危険物はありません)中小企業組合師(診断士ではなく組合師:組合運営の資格である→今は使えませんね)
スキー指導員(腰を痛めて使えませんね)、レクレーション指導員(今は主体の組合がなくなりました)まあ実はまだありますが、結構使えないものを集中的に持っていて、宴会の時にネタになるかと思いきや、結構話題が続かないので、資格の話は封印しているのであります。

閑話休題。。。

テーマがそれてきましたね。

で、要するに、イメージ(残像)をアップデートする必要性が、というか、過去のイメージや資格なんてものは、旬がありますということです。旬があるということは旬はずれも多々発生するということで、本当にアップデートが重要。

特に過去の成果があるばっかりに、時代の変化に対応するに非常にコストがかかりやすいという日本の現状。

これから街を作ります!っていう世界中の多くの土地には、今の最先端技術が「ずぼっ」と入り込む訳で、これから30年もしたらアフリカなんか太陽発電でエコの先進地域になっておる可能性だってある。

日本に住んでいます!っていうと「古い体制の不便な国」というイメージになっていたりして。


それにしてもビジネスモデルなんていう角度で見たら、不特定多数に向けて情報を発信して、その内の何割が反応するのだろうか?というマスの「予測」(あるいは予想、もしくは「ばくち的」な)販売促進なんて、非効率きわまりなしという時代が来るかもね。

実は僕は20年前にそんな内容のコトを発表して、業界のお偉い方々からえらくお叱りを受けたことがあります。

お店をしていた僕は、よく妄想をしていて、
「明日来るお客様のお名前と来店時間が分かっていたら、従業員のシフトを組むとか、そのお客様向けの商品「だけ」を用意しておけばいいという在庫管理体制とか、つまりお客様の動向が分かっている仕組みは作れないものか?」という問題意識をずっと思っていた。

暇な時間と超忙しい時間が「予測」できないから、いつも野球の守備みたいに臨戦態勢で「お待ちしている」という束縛感が本当に嫌でしょうがなかった。

もし本日のお客様が来店する時間やお求めになる商品が事前に把握できていたら、その時間帯にすっかり準備して、例えばお昼ご飯なんか、どの時間に食事を済ませておけばいいかも分かるし、どの商品を事前に手配しておけばいいかもわかって、余計な在庫を持たなくていいなあとか、来店が多くなる時間が事前に分かっていたら、パートさんの出勤時間をその時間帯に持ってこれる訳だし、本当にお店を経営するって、なんて「非効率」なんだろうかと。

で、今日のテーマはイメージ。
お店は「当然」いつお客が来ても大丈夫なように準備万端整えておくべしという既成概念。
これがお店として当然のイメージ。

さあて、そんな「当たり前」と思っているイメージを元にして生きていくのは大変リスクが高い時代になってきたんとちがうか?

困った、こまった。

2010年1月26日火曜日

ヒント

こんなイメージは高校の頃からあった。

歴史をどんな目線で捉えるかということは、いろんな立場と議論がある。歴史は通常為政者側から語られるから、人民にとって歴史は、教科書ほど事件は存在しておらず、よく似た毎日の繰り返しで、今日に至っても人間は「毎日の生活」という視点から見て、そんなに進化していないという見方も一つ。

また経済制度の歴史としてみると、結局のところ、支配と非支配の関係制(それは人単位でも、国単位でも)とその交易での損得勘定という枠があるだけで、プレーヤーは変われど、これも今日に至ってまだそんなに人間は進化していないという見方。


高校の時にイメージした見方は、人間は、「個人の解放」に向けて進化していて、進化論としての歴史の見方のほうがおもしろいだろうになあということだ。
集団、支配、非支配から、個の解放に向けての歴史としての例は、たくさんある。
最初はリーダーが一定の集団を支配して、その集団に「帰属」することによって個の生存も担保されたという歴史が続く。
都市国家の誕生から、プレーヤーは変化していくが基本的に集団の支配者側と被支配者側で、結局お互いが依存関係を結んで生存を担保してきた。これは戦後もしばらく同じ枠の中にあり、その枠の中で、体制を選択するということが続く。

しかし、人間の進化は亀の歩みのように少しずつではあっても、個の解放に向かって出来事を広げてきた。

分かりやすくするために、戦後の時間に区切って考えてみよう。
例えば、テレビは、街に数台から始まって、各家に一台になり、そして各部屋に一台になって、今や携帯でテレビは完全に個人の領域に組み込まれて来た。例えばヒット曲は、街に流れる大ヒット曲から、どんどんジャンルが細分化されて(そのジャンルの対象は集団、年代から個へ分割されていく)今や日本国民がみんな知っているようなヒット曲は出にくい時代になった。個々が好きな曲を直接ダウンロードする訳なので、もはやヒット曲が必要でない状況になったのだ。

車も家電もそう。すべてが個に向かって発展してきている。
一家に一台から、各部屋に一台、そして各自に一台。

当たり前に見えるが、これを歴史に引き延ばした時間軸で見るとこんな時代はきっと今まで無かった。


「個の発展」という視点が、進化を意味するかどうかという議論は、次の機会にゆずるとして、
平たく言えば、個では生きていけないほどの自然条件から集団組織を作り、リーダーが出てきて支配、非支配の組織が出来、長い歴史を経て、個の解放を獲得しながら、個の水平統合へ向かって、個の力が強まってくるという感じのもの。


そして社会に出てから、「組織論」を学んだとき、この高校のときの理論が、いろいろな実感をともなってよみがえってきて、そのまま引きずりながら時を経ている。組織論はモチベーション論と同じ定義をしてよく、個がいかにして「やる気」を継続させて発展してくことが出来るかというテーマを扱う。元々は軍事理論であり、翻訳すると「どんな組織体系にしたら、みんな頑張って戦うか」という理論の発展である。


学んでみた時に(自分の理解力の限界を棚に上げて)組織論だけで、継続的に人が頑張る体系を作りあげることは出来ないという結論を得た。ある組織体系を立ち上げ、そのモチベーションを絶えず与え続けるには、その組織体系を変化させていかないといけない。つまり組織を作るということは「組織を壊す」ということと同じことになり、いかに上手く「壊す」かという技術について述べていくことになる。

おお。

これは私たちのからだの 細胞分裂と新陳代謝の形式に非常に似ている。

生きていくために、細胞単体で見ると「どんどん壊していく」「どんどん作り上げる」という新陳代謝が必要なんだな。

組織論はいくつかのステップに従って、
例えば「立ち上げ」「成長」「成熟」「衰退」のそれぞれのシーズンで作り上げる形が異なる。

さて、この2つのこと

個の発展に向かっている歴史



組織論の究極的な姿の新陳代謝。

これが、今年のキーワードになる。

個の発展に向かっている歴史という観点は、例えば、集団での目標を達成するために個を犠牲にするというシーズンを終えて、(集団での目標達成に関わることで個の生存理由も満たされるというシーズン)

個の覚醒に向かっていて、個の覚醒というと難しければ、個の自立ということと捉えてもいい。
今から50年前には、確実に集団の中での個というものがテーマであった時代。

そして歴史という流れというか進化というものがあって、
シーズンがステップを重ねて生育すると見たとき、次のシーズンは今から始まる個の自立というシーズン。
個があって、集団があるという形は、振り返ると歴史でそんなシーズンはまだ体験していない。

個が存在してはじめて集団としての機能がはかられるということは
宇宙の成り立ちにも似て、壮大な実験のようなものになるのかもしれない。

集団を機能させる個ではなく、個が自立して、さらに集団化することで機能を拡大させていくという組織のあり方は、組織論にはない(軍事から始まった組織論に元々「個」の概念が希薄であるということもあるが)


さて、これはいろいろと研究する価値のあるテーマにぶつかったかもしれない。
「個の解放、発展と組織論」の一つの形が見えてくるのは、もうしばらくかかりそうだが、

ここには個人が世界中の情報を持てるようになったという「インターネット」という革命を見逃す訳にはいかない。

僕は妄想を抱えながらこう思う。

このインターネットの革命は、これからもしかしたら人間自体を進化させていく可能性があるんでないかと。

個の解放と発展を得た人類は、もしかしたら、今までの既成概念を壊して、次のシーズンに発展していくのではないか。。。

ここから先はニューエイジ主義の妄想か、はたまたSFの読み過ぎか、あるいは未来の黙示録か。。。

人類は新しい能力を持つに至る可能性があるかも。
それはきっと、今までの意識の壁を壊したような、意思としての情報獲得の方法かもしれないなあ。

神経ニューロンの仕組みをまねて、生体組織を使ったコンピューターの試作機が動き出した。
人の脳波をキャッチするマシンがすでに量産可能な技術になっている。

この進化は、進化なのか破壊への序曲なのか?

進化と新陳代謝。。。組織論でいうリニューアルシーズン。組織を延命させるためには組織の一部を破壊しなければならないとする理論。


今年の研究裏テーマになる予感。(僕は研究員ではないけれど)

何かおもろい「見立て」が出来るんじゃないかなと。


ここまでお読みになって、お気づきの方がいるかもしれないけれど、
ここに書いた内容は、僕の執筆活動のテーマの卵なので、うっかり転送や引用などなさらないように>あしからず。

とまあ、何となくアイディアのヒントのようなもの。書いておきました。