2009年12月27日日曜日

ちょっと怒ってみよう

とある案件での資料探し。
オバマ大統領の演説をyou tubeで見ていた。上手いね。伝達力があるな。世界を一緒にかえていこうという活気が伝わるし、何よりプレゼンターという技術面よりも、リーダーというものを感じさせるもの。

ひとつ感じたコトは、見えないものをイメージさせること、つまり未来や将来性やイメージ、ビジョンを語るには、直接的にシンプルな方が伝わるのだなあということ。オバマは、みんなで困難に立ち向かおう!出来る!私たちは未来の歴史に、困難から逃げたと審判されるか、立ち上がったと審判されるのか?と問いかけた。

未来の次の世代から、私たちは評価されるのか?批判されるのか?答えは明白だというメッセージだ。しかも結果ではなく、立ち上がる、立ち向かうなどの「姿勢」を問うている。

日本の政治家は何かを勘違いしていると感じてきた。
国をかえたい!私に投票してくれたら、○○を実現します!と訴えるが、そしてその公約や嘘だらけだと有権者は政治を批判し無関心になっていると言われているが、そもそもその構図に疑問があった。

有権者は一体政治家に何を期待していたのか?期待の反応として何に失望したのか?
有権者は政治家を「育てよう」としたか?政治を「作ろう」としたか?
政治家は民衆に何かを「してくれる」存在の構図であっているのか?
政治家は、単なる民衆の代表として議会を構成するだけであって、何かをしてくれる人たちではない。
また行政と議会は違う。
そもそも民主主義の日本では、民主主義の掟のような構図自体が理解されていないのではないか?
3権分立が、どのようなプロセスを経て成立し得たのかが理解出来ているか?
役割と権限と、出来ることと出来ないことが存在する。

日本は民主主義の前に、法治国家である。
法や構図、仕組みを文書化させて合意するスタイルをとっている。
「仕組み」を作るのが議会であるならば、仕組みの土台のビジョンを選択するのは、選挙民だ。
議員はその付託をされた代表でしかない。


オバマの演説で、本当にココロに響くのは、「一緒にこうあろうじゃないか!」というメッセージだ。アメリカの政治や演説には、いつも私たちはこうあろうではないか!という「姿勢」に関するビジョン、共感を求めるメッセージが多い。オバマは私に清き一票を、私は○○をやります!私を大統領にしてください!とは言っていない。

こうあろうではないか?その判断をあなた方に求めると判断を求めている。

この微妙な感覚をうまくことばに出来ないでいたが、オバマの演説を聞いていて感じたことは、アメリカは民主主義の国なんだなということと、日本は「お上」に何かをしてもらうことを想定するお役人の国、もしくは殿の国なんだなということ。微妙だと思っていたことは実は社会の構図の一部であるようだということだ。日本は代表者というか権威あるものを決めるような構図(人を決める)感覚だが、アメリカはビジョンや考えを選択するという感覚だ。(これも微妙でことばに置き換わりにくいが)


あと感じたことは、人の本質を知っているんだなということ。
(本質を知っているとはキレイな側面ばかりではないが)

主に、人は、ほとんど他人から「評価」をされたい根本願望がある。
評価をされたい願望は、2次的に、「批判されたくない」「認められたい」という感情をもたらす。

21世紀、経済や環境やウイルスやいろんな危機と言われるものがある。その解決は打ち出の小槌のように「ひとつ」の処方箋だけではないことは明白。

でも、基本的な土台はありそうな気がする。そのひとつが、認められたい。評価されたいという部分ではないか。大事な要素だなあ。



演説ひとつで、すべての構図を語ることは出来ないが、何となく日本の今の政治を見ていると、ちょっと複雑な心持ち。
何がそうさせるのか?

それは、
ビジョンというか、日本よ、こうあろうじゃないか!という姿勢が本当に曖昧だからだ。
特に世界の中で、何を大切にする国でいこうぜ!というものが見えにくい。

日本は大切なものを見失ったという論調はよくあるが、大切なものを「見失った」のではなく、作ってこなかった、継承してこなかったということなのだ。

歴史を見ると分かる。江戸、明治、大正、昭和と価値観を転換させて来た国であり、分断、過去の否定を繰り返してきた国なのだ。保守系の方ならば、古き良き日本、和や文化の長じている部分や、美しき義理と人情を叫ぶのであろう。革新系の方ならば、民主主義、人権、個性をさけぶだろう。

残念ながら、僕は、そのいずれにも「しっくり」こないタイプの人間だ。どちらも幼稚に見える。

戦争責任や、過去の歴史の反省や分析や、世界の変化と日本の変化などのいろいろな社会構造に対して、何が優先課題なのかを、一度も国として「検証」していないことが原因だからだ。つまり、ストーリーになっていないからだ。

全部の領域をいい感じに「よきに計らって」来たから。検証のしようがない。
流れに従って、緩やかに、穏便にしてきたから、変化の分析のポイントが明瞭ではない。

強い判断のポイントがないから、評価の座標軸がない。
この国は「各論だらけ」で、強いストーリーの軸がない。

自衛隊はどうだ?国債発行はどうだ?環境対策は?昔の公害対策は?教育はどうだ?日米安保は?赤軍の残した課題は?学生運動の総括は?バブル経済はどのように始まり、何がどうなったのか?だれが何をどの情報を元に判定したのか?

歩んだ歴史の何が後世に教訓として残せるのか?
歴史を閉じて、教訓を作り出せていないのではないか?

細切れ、縦割り、秘密主義。事流れ主義。(事「なかれ」ではない。事に流される主義)
依存体質の成せる技。外圧というか外部の「何か」に翻弄されて、今があるという感覚だから、結局責任は誰にもない国になった。結局保守主義でも革新主義でも、単なる現象とスタイルに過ぎず、保守も右翼もかっこわるいし、革新、人権主義も視野が狭いというか、人権が大事だと、他の人権を無視して大声で主張するありさま。本末転倒も甚だしい。



何の「意図」があって過去は「何を選択」し、
どの「結果」から「次の方向性」として何をジャッジしてきたのか?

日本の歴史が、政治判断が、物語にならない理由がそこにある。

誰が日本の今を決めたのか?何を最優先課題にして数年過ごしたのか?次のステージに、どれを変化させたのか?
ビジョンがない=ストーリーがない。


うつ病患者が急増したり、精神科の患者が増えたりしているのは、正常な反応なのかもしれない。異常な現実に、反応している訳なら、その反応は「あっている」訳で、異常な社会に、正常でいれる方が「異常」なのだとしたら、今の日本の社会で元気でいれるのは、正常なのか異常なのかという笑い話。

まあ今日はちょっと主張してみたが、
今年のニュースを振り返るにつれ、おかしな感覚が沸き起こる。

今の日本で、正常でいられるみんなは、本当に「正常か」?

そんな僕は、座標軸をどこに持つべきだろうか?

といいながら、現実日常はしっかりと流されているのだが
ちょっと主張をする2010年でありたいし、穏便ではなく怒ったりしていい年かなと思ったりする。