2010年3月28日日曜日

目に見えないもの

今月は僕の意識のひとつが大きく変化している。

それは、存在証明のようなものを枯渇して求めていた高校時代からの思いのからくりがわかったからかもしれぬが、人から見たら小さな変化である、僕にとっては大きな変化。

生きている証のようなものを、存在証明という言葉で認識して、その存在証明のようなものの「姿」の一つとして書籍や本、のような媒体をイメージして来た。晩年は作家になろうという思いが何によって沸き起こっていたのか?

それは自分の考えや、ものの見方のような、自分なりのオリジナルなものを目に見える形で残しておきたいと思っていたからだ。高校時代に自作していた冊子には、晩年の僕が書いた本を、生まれかわりの次の世代の「僕」が読んで、多大なる影響を受けて、(当然僕が前世を認識していないように、次の世代の僕も、今の僕を認識することはないが)つまり、今の僕の書いた著作の影響が次の僕に及ぼして、その考えの続きを僕自身が、(しかしまったく認識のない僕の生まれ変わりが)継承していくような物語を夢想していた。

わかるよな、訳わからないよな話だが、一時は本気で、「生まれ変わった僕へ」的なタイトルの作品もどきを習作していた。


今月の僕の変化は、その本を書くということではなく、ビジネスや、何かのプロジェクトに対しての「哲学」が、もし今の僕が亡くなって、次の僕が誕生し、(つまり生まれ変わって)社会に出たときに、幸運ながら今の僕が生み出したプロジェクトが綿々と受け継がれていて、次世代にも影響力があって、その哲学に触れて、継承していくということが、本当に実現したら、こちらのほうが「見に見えない哲学のようなもの」だけに格好いいなああと思ったことだ。

時代に合わせて物事は変化していくのは鴨長明が語ったことだし、それほどまでに永続性のあるものと言えば、それは結局時代背景や環境を問わずに変化しない「哲学」「考え方」「倫理、論理」みたいなものなんだろうし、本質的な価値観というものなんだろう。


原理主義的に言ってしまえば、かのキリストの教えとか仏陀の教えというものも、彼らが生きていた時代に、彼ら自身が語ったものから、今は変化しているんやでと言えるかもしれないから、いくら「哲学」といっても、やはり永続性という面では目に見えないものである分、それは結局はかないものなのかもしれないから、やはり本のような物質的な何かが、後世に残すためには有効なのかもしれないという気もする。

ブッタの教えに至っては、親鸞や蓮如の例を出すまでもなく、時代に合わせて「再定義」が試みられて、本来の解釈というものを、独自の視点と解釈を付け加え、削ぎ落とし、その変化があるが故に、今の時代まで伝えられてきているという要素が多分にある。

電線で電力を送電する際に、だんだん減衰していく電力を途中の変電所とかで、増幅させながら遠くへ運ぶように、一つの哲学を後世に伝えるために、その哲学自体に増幅の手を加える必要がある。故に純粋な意味で哲学が「そのまま」継承されることは少ないというパラドックス。


話がこんがらがったが、実際のところ、後世までに「確実に」残るか否かという問題ではなく、自分が何を残したいと思ったのかという現時点の思いの方が重要で、

つまり、哲学のようなものがいいなあと思ったというだけのこと。

目に見えないものが、一番価値があるように「見える」という転換の体験であったし、今のそのテーマの渦中にある。

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