龍馬伝を見ている。幕末とはどんな時代だったのかを、龍馬を透かして見る。
狭く地政学的に、国境が自然と定められたように成立した日本。
そして当時の藩には、従うべき幕府という「お上」だけに焦点を当てていればよかった時代が続いたあと、外国という、幕府以外のものに焦点があたったときに、人々は、困惑したに違いない。
人は、従うべきものが明確で、かつ唯一のもののとき、安心して従う傾向にある。
ところが、それが複数現れたとき、従うべきか、自分はどう思うのか、ほかのものはどうなのか、と一様に困惑する。
支配とその支配から派生する秩序は、一定の範囲において人を安定状態におくことが出来る。
その秩序が乱れていると判断された場合、その支配と秩序は螺旋状に下降に向かい、そしてその下降を押しとどめようとする反作用のエネルギーと、あいまみえて渦のような、振り子のような情勢を作り出す。
幕末はそんな様相と見えた。そして現在も。
「国」「国家」という概念が、今後も存続しうるかどうかは、僕にはわからない。わからないという感覚は、つまり、存続し得ない可能性を感じるということを含む。
幕末、黒船来航があるが、一つの支配構造から、ほかの圧力がかかり、その支配階層が揺れているという認識が、非常に幕末のそれぞれの動きに影響を与えていて、結局その文脈から発生するエネルギーの集結が明治維新ということも言える。
注目するべきは、黒船来航自体は、実は単なる「引き金」の事象で、幕末に残された文献を見ると、その黒船来航に対しての幕府の反応の「揺らぎ感」「動揺感」が、人々に不安を与えたということが注目される。
組織やグループにおいて置き換えるとわかりやすい。
いかなるときも、リーダーが一つの指針を明確に打ち出し続けると、結果として、その組織が敗北や崩壊に至るとしても、組織の構成員からの「動揺」は少ない。
(ここで、リーダーが「動揺」すると、反作用で、「どないかしないといけない」という改革の旗手が登場する土壌を作り、その組織は、ある意味、再活性化するという可能性があるが、結果論としていいか悪いかは別にして、リーダーの動揺がない組織においての秩序は一定のレベルに保たれるという)
幕末の人気と、今の世相が似ているが、
実は、一つの支配構造から、ほかの圧力がかかり(までは似ている)が、次の段階、その支配階層が「揺れている」感が、今の日本には実感覚として希薄の感じを受ける。
つまり、なんとなく統治され、なんとなく統治能力が低下している様相。
つまり、なんとなく、カエルがゆでられている状況。
この現象は、今の日本にとって結果論として「いい」のか「悪い」のか?
破滅思考のよな感じの思いがよぎる。
いっそのこと、治安がもっと悪化して、明らかにリーダー不在の様相ならば、世の中は変化するのではないか?
非常に危険な思考ではある。
かのカルト宗教の主張の一端にも似ている。
歴史には、同様な思考が、現実になっている記録が山とある。
深刻なリーダー不在でしか、変革は生まれないのか?
不安定なビジョンの欠如から派生する、秩序崩壊からしか、未来は構築できないのか?
変革のテーマになると、必ず登場する意見がある。
「何かを変えないといけないが、何から手をつけていいかわからない。」
「自分ひとりが声をあげたところで、結局何も変化しない感覚。」
ということは、組織論的にいうならば、国家や人口、規模が、でかすぎるということになる。
人民にとって、コントロールできない規模ということだ。
もし、日本という国が、組織として大きいならば、
分割して、コントロールできる規模に組み替えない限り、変わらない。
地方分権が叫ばれる。日本という「国体」が揺らぐ。
「適切に変化成長できる「サイズ」は、そこに関わる人の能力に依存する」(組織論の公式)
関係するサイズ、温度が体感できるサイズ、自分の力が影響するサイズ。
サイズの規定が、一つのテーマになり得ると思うが、誰か研究しているのかなあ。
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