ハーバード大学で白熱教室と呼ばれるサンデル教授が東大で講義を行ったとの報道を読む。
8月は、終戦記念日があり、日本の戦争と、その後の復興の足跡から、今を考えることがある。
最近の20代は草食と呼ばれて、物欲は抑制されていると聞く。
団塊の世代が企業生活を終えて続々と年金生活に入る。
高校のころ、学生運動の世代ではなく、全く世代は2つも違う僕らが、夏休みに「議論」をするキャンプを主催していたことがある。議題は、平和について、男女間で友情は成立するか、なぜ学ぶのか?など多岐にわたるが、議論は白熱した。
議論をすることが減っている気がする。
誰もが「答え」を求めたがるし、おりこうさんの「生徒」になりたがる。
物事には「答え」「正解」が存在し、その正解を身につけることが「正解」なのだろうか?
高校時代から、すでに20年以上も経過して、一応社会生活をしてきて思うこと、
それは「正解」がないことのほうが多いという実感。
なのに、日本の最近は、政治も、会社も「議論」をしない。もしくは「避けている」
「議論」は意見の対立を背景に、問題の本質の合意を求めて行うものではあるが、
その意見の対立が苦手になっている。
議論の方法のひとつに「賛成側」と「反対側」に意図的に分かれて、決められた立場から意見を述べるという手法がある。
一定時間を経過すると野球の攻守交代のように「賛成側」と「反対側」を交代し、やはりその立場から意見を述べる。
つまり、前半と対立する立場から、後半は意見を述べることになる。
ここには、「正解」か否かという視点はなく、テーマについて、深く思考するために、議論が存在する。
サンデル教授の本を今読んでいる。
正解が示されず、議論と思考を求められる読書は、確かに結構きつい。
なぜそう思うのか?その思いの根拠となる思想は何か?それは矛盾がないか?
一つのテーマだけを議論していると見えて来にくい、根拠と思想は、
複数の異なるテーマを論ずるうちに、根拠としている思想、背景が揺れてくることがある。
先ほどのテーマでは、Aという立場から論じていて、Bと言う視点はおかしいという指摘を論じていたにも関わらず、
次のテーマでは、Bという立場から論じているということが、本人の意識を越えて発生するのだ。
そこで、改めて、論じている本人も、思考を深めていくことになる。
高校の時の議論で体感したことは、僕自身が、本来当然好きだと思って(思い込んでいた)視点が、実は、表層的で、
矛盾を抱えていることを自己発見する「衝撃」だ。さらに、そこからその議論を通じて、あたらな視点(より深い視点、もしくはより本質的な視点)に出会ったときの「楽しさ」だった。
テーマ自体は、やはり高校生だから、幼稚ではあったかもしれないが、
その「知的興奮」のようなものは、社会生活を経験するうちに、置き忘れてきた感がある。
情報があふれてきて、そして大人になると自分自身の判断に自分自身で決着をつけるべきものではあるが、
知らないうちに「社会の正解」「会社の正解」を知り、それに従順であるもしくは、単に反発することという回路が出来てくる。
「議論が出来るイベントはできないか?」
議論を議論するのではなく、議論を体験することで得られる体験(エクスペリエンス)をイベントできないか?
20世紀の学生運動の回帰ではなく、そしてウェブで見られる書き込み、コメントのようなものではなく、
何かを決める会議ではなく、議論。テーマが次々を現れていく議論。
哲学や宗教観、人生観、仕事というもの。恋愛、環境、教育、生活。
議論を通じて、皆が考え、そしてその考えを深めていくような体験のイベントが出来ないかと思たりする。
生活、仕事、人生にとって、議論は大変面白い手法になりうる。
知的興奮を体感してみると、この知的興奮は、人間に与えられたものだと、なんとなく体感できる。
そして正解を求めることが、いかに安易かもわかる。
議論をイベントに組み立てできるようなプロデューサーがおられたら、一度お話を聞いてみたい。
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