人が、他人の事を否定して、突き詰めて暴発的に殺人になったりしている。
一部の成功哲学のようなものが、人生思い通りという表題をつける。
表面的、短絡的な思考、もはや思考というべきプロセスがないままの衝動と言っていいような事件が続く。
自分と他人の境界線が直線のブロックなってしまっていて、その間にある川のような緩衝帯が人工的なデジタルの加工とともに姿を消している。
何か自分の思い通りにならぬ出来事に対する思考のプロセスが、一種のデジタル信号に変換されてしまって、
白か黒かの2択になっている。白か黒かと2択を迫ると、自分と違う答えは、もはや自分の存在をおかす危険な答えとなって現れてしまう。
そして間違いは消去していく作業が、いとも簡単に行われている感覚だ。そして白でもない黒でもない、グレーの部分がエラーと見える。
というか本来、色にはもっと多くの色がある訳で、人の数だけ色がある。
日本人の歴史と環境は、本来多色である人の個性を「まったくおもしろいやつがいる」「手に負えないやつだ」と「許す」文化を持っていた。
それは長く続く江戸時代にも、罪人に対する流罪であったり、直線的に命を否定するのではなくて環境を移すということで
一つの緩衝帯を設けていた。許す文化という側面は、暗黙の了解であったり、本音と建前であったり、あいまいな表現という事でも現れている。
戦後、日本には民主化という波の中で、そしてその後の経済成長の中で
そのあいまいさ、緩衝帯がなにか時代遅れのもののように取り払われていったのか。
みんなが同じ人間であるという基本的人権は、近代の貴重な価値観である。
存在という意味では、1人の命は平等である。
でもみんなが同じ事を考えるということとは異なる。
その同じ事を考える、同じような行動を取るということではない。
日本には方言があり、地方独自の文化がある。地方ごとの特産物も気質も異なる。
「異なるもの」に対するものの捉え方が急速に窮屈になっている感覚を覚えるのは、僕だけか?
多くの出来事が、自分の思い通りには進まない。特に他人の行動を動かす事はできないことが多い。これは影響力の問題だ。
影響力は自分の想定通りには働かない。発信側の都合ではなく受信側が影響力を決めていくからだ。
発信側に意図があり、その影響力の公使を期待して発言をしたり、行動をしたりする。
人には経験、感性、気分、と3つの物差しがあって、その構成比率も、そして反応の敏感な分野、テーマもそれぞれが異なる。
何も意図を持たない些細なひと言が、相手にとってこゝろを突き刺したり、鼓舞したりすることがある。
それは影響力が受信側の物差しやタイミングによって意図を越えた偶発的なものであるからだ。
人に対して何かをしてほしい、こう動いてほしいという希望を実現させていくには、
祈る、願うしかない。
そしてもう一つ、かのように意見や感性の異なる人をまとめあげるには、正論よりも大義が必要だ。
大義という意味が難しければ、コンセプトやビジョンと置き換えてもよい。
昔は正論で人をくくることができたかもしれないが、今は人の数ほどの正論が発生していて
価値観の多様化と言えば聞こえはいいが、実際の所、人との差別性、固有性が人の欲望から発生しているのであれば、
時代が積み重なるにつれて価値観や正論たるものの数が増えていく。
では、大義は何をもって表すことが出来るのか?
それはきっと希望やロマンや、いわゆる言葉の弊害を恐れずに言うなれば一種の法螺である。
事実今の現実には何も現れていないものを将来現実として現れると希望するのだから、それが実際に実現するか否かは、実は保険も保証も全くない。
なので一種の法螺話である訳だ。
近代は、事実と科学の時代が続いた。そしてこれからも事実と科学は基礎的インフォメーションとして機能し続ける。
これから先、事実と科学と法螺の時代が来たといえば、一種の詐欺的なにおいがするのかもしれない。
大義はもう一つ、「かくあるべし」という哲学のようなものを含有する。
つまり大義とは、かくあるべしとの哲学を含み、事実や科学を基礎として、将来の希望を込めた壮大な法螺話ということになる。
人は夢や法螺話に、一種のロマンや希望を見いだす。
半信半疑の感情を片手に持ちながら、希望を指差す。
そして法螺話を吹くものを、大きな世界観を持つ者と錯覚する。
だから有史以来、多くの人々が、詐欺にあったり、謀略にはまったりしてしまう。
人が事実と客観的なもの、例えば事実の科学、数値、だけで判断していく冷静な生き物であるならば、世界はもっと秩序だっていて、
しかしドラマ少ない面白くはない歴史になっていたことだろう。
客観的な科学的見解が面白くないのは、これが事実であったとしても、ロマンや夢や法螺をかすめてしまって、
希望、つまり変化を夢見ることが出来なくなるからかもしれない。
大義は大きな世界観であっていい。
主観的なイメージや法螺話であっていい。
志を持って、大義を語るとき、そしてそれを聞くときの作法として、
客観的事実などを持ち出して、その大義の実現可能性についての可否を問うてはならない。
それは野暮というもの。その境界の隙間を楽しめてこその人生と思う。
主観的な大義が、多くの人を包み込む。
そして個々の個性が多色に輝く。
異なるものへの緩衝帯と、共有できる大義の2重の含有が、
これからの思考のプロセスには必要なのではないか?
きっと新しい時代に入っているのだと思う。
2次元的に思考を展開しなければ、ならない。
自分の主義主張を唱えつつ、大きな大義のもとに集まるグループが出来るが、
個々の個性は輝いて、そして大きな波を創り出すような感覚。
世界はその価値観に向かっている。
しかし日本は大丈夫か?
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