2009年12月23日水曜日

オープンソースなる考え方

企画やプロジェクトなるものに携わって、ある程度になる。
従来(昭和)では、特定のプロジェクトや技術、商品について、特定の団体、企業、プロジェクトが「秘密」にして自分たちが独占することによって、利益を獲得するというモデルが機能していた。

「していた」と書いたのは、これからは、特定の知恵や技能、ノウハウをオープンにすることにより、2次的に広がる波及効果の輪の中にいたほうが、個々の枠内で活用するよりも、自分たちも利益が大きくなるという時代。

例えば、特定の問題に取り組んだ北海道のaさんが、エネルギーをかけて解決方法を編み出した。同じような課題を、全く別の東京で、悪戦苦闘しているbさんや同じく九州で不眠状態になって苦しんでいるcさんには、見知らぬaさんの編み出した解決方法の恩恵を受けることは出来なかった。

昭和の時代は、まさに個人も、企業もそんな、課題解決の手法、ノウハウ、技術を獲得する競争をしていて、自分たちの個性や独自性というものを自分たちの影響力の範囲内で活かすこと、独占して使うことに注力をしていた。

自分たちで編み出した技術は、特許を取得し、他人には使わせないという見解だ。

<断っておくと、特許は必ずしも他人に「使わせない」ためにあるのではない。使うときに、発明者への、その発明に関する価値を、きちんと認めてやろうというものなのだから、特許=排他的というイメージは、どうやら日本だけのもの。もちろん無断で使用すると「発明者の価値を認めていない」からダメだということなのだが、本来は、「使うときには、いかほど?」と価値を話合うというものが特許の正しい使い方だ。>

これからの時代は、先の例に戻るときっとこんな感じになるのではないか。

問題解決をしたaさんは、その解決方法を自分のブログに書いた。同じ課題をもつbさんやcさんは、インターネットで情報を探していて、aさんのブログに検索語がヒットしてaさんの見解を知ることになる。
さてこれで問題解決となる訳だが、ここで、bさんはブログのコメントに「助かった、ありがとう」と記録を残し、コミュニケーションの一端を残した。

その後、コメントを見たaさんは、bさんに「コメントありがとうございます。お役に立てて光栄です。実は、○○の箇所に一か所不都合とまではいかないのですけれど、円滑ではない部分が残っているのですが、bさん、実際に活用してみて、何かお知恵はありませんか?」とコメントを返した。

するとaさんが心残りに仕上げていた箇所については、実はBさんはエキスパートだった。そしてBさんは「その件でしたら、実はこうやって、こうすると円滑になりますよ」とすぐに対処出来た。

で、このやり取りをブログで見ていたCさんは、「おふたりの意見交換は非常に参考になりました。ところである部分ですが、この方がより円滑になるのではないかと思うのですが、aさん、bさんのご意見が頂けると嬉しい」とコメントをした。

aさんも、bさんも全く気付かなかった部分だ。
cさんの指摘により、検討をしたaさんは、cさんにコメントを返す「これは全く盲点でした、Cさんのご指摘のように非常により円滑になりますね」



さて、である。

もしこの事例が、何かの商品だったと仮定して検証すると、
aさんがはじめに開発した商品と、bさん、cさんのやりとりを経た後の商品は、どちらが品質が上がっていると想像できるか?なのだが、答えは至極当たり前に後の商品ということになる。

この3人を3つの企業に置き換えても答えは同じだ。
そして3つの企業を、3つの国に置き換えても。


最初の商品を「x」、最後の商品を「y」と名前をつける。
2つの時間軸を比較してみる。「x」を単独で販売しようとした場合と「y」を3者で共同開発、共同販売した場合との比較だ。

aさんがかたくなに秘密を守り、自分の枠の中で独占利益を得ようと頑張って販売をした「x」は1億円の売上だったとして、その改良品の「y」が広く各国に販売出来て売上が50億円になったとしたら?

同じaさんの利益は、どちらの形態の方がいいか??



現実には、そこまでイージーに事は運ばないが、
オープンソースの考え方とはきっと3者で共同していこうじゃないかという方向性の中にある。

企業間の合併や、飛行機の共同運行、共同研究開発とかが新聞に載っているが、
開発費用という点でも、結局同じ基礎実験を、お互いの企業が「秘密」でやっていて情報がないものだから、
何度も、どこかでやっているとしたら、ずいぶんと「ムダ」な話。

インターネットは、そんなオープンソースの「基盤」を作っていて、
本当に今までの閉鎖系から、開放系への革命が起きている(もしくは起きてくる)

とすれば、

閉鎖系の枠組みを、開放系に変化させないといけないんだけれども、
果たしてこの国は、閉鎖系の方向性の中にいるのではないか??

「独自の技術」「独自のノウハウ」も開発自体は素晴らしいが、活用段階では知恵が必要だ。

日本はこれから開放系になれるのかなあ?
むろん、毎日の生活と取引の中で、昔の鎖国のような状態を続ける訳にはいかないから、大きな流れとして情報は回遊していくのだけれども、問題はその「スピード」にある。

歴史は、閉鎖系から開放系に、物理のエントロピーの法則のように、確実に最高値まで変化し続けているが、
それが「世界に流されている」ように変化するのか

はたまた「流れに載って」「自ら」泳いでいけるのかは、僕は現在非常に悲観的に見ている。

だって、自ら泳いだ歴史がないんだもの。

泳げる人は、海外に出て行く。その方が自分らしく生きていけるだろうから。

泳げる日本「人」は出てくると思うが、「日本」は泳いでいけるのか?


で、オープンソースなる考え方の方向性が先の事例のような体系だとして、課題になるのは何か?

キーポイントは技術ではない。
コミュニケーションとか、プレゼンテーションとか、
あるいはコメントとして「お礼」を述べるとか、「感謝の意を表す」とかの礼儀のようなゾーンの話。

異なる立場の人と「組んで」よりよい、大きな仕事をしていくという作業のプロセスに
日本人は「慣れていない」

「交渉」「契約」「法律」やら、「構想力」や
いわば、想定を何種類も考えて、最適解を求めていくという頭の使い方が、特にこの50年では得意ではない。

いわゆるテストの回答のような、記憶、前例、の事例の暗記のようなものは優れているのかもしれないが。

「交渉」「契約」「構想力」を検討する場合は、条件別に何種類も構想を考えることに迫られる。
しかし、現実におきる出来事はその中の1種類。せっかく考えた何種類もの「没案」が足下に転がることになる。
しかし、この「没案」たち、もしくは「没案」を検討するときにシュミレートしたことどもが、やがて大きな力になる。

教育が大事だとは最近よく耳にするが、それは情報、知識ではない。(というか情報も知識も必要だが、それで十分ではない)

検討、比較、検証、仮説、構想の力が必要だ。
だから人生にはムダが多くなる(苦笑)

今までの昭和の価値観ならば、最速の最適解を「知っている」ものが強かったが、

これからの時代は、

きっと


試行錯誤や七転八倒の経験や、そのおりおりに考えては「没案」になったものに埋もれるほどの人間が必要かもしれない。
そして、人の輪を作れる人。人を巻き込む力。魅力。それは人間臭かったり、人情だったり、義理堅かったりというもの

明治の空気が必要なのかもしれない。。。。

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