「何のために生きているのか?」
この疑問は結構長い間、僕のココロの底に滞在している。
滞在していると書いたのは、
それが優先順位の高い自問自答なのではなく、
特に調子の悪いときに顔を出すタイプの質問だったからだ。
何か人生、毎日の中でうまくいかないことに遭遇して、
先行きが見えない状況というものは人生には、いろいろある。
僕は何かを目指して生きてきたタイプではなかったから、
40年もの間、目先の興味関心のあるものにご執心しては、
経済的に、人間的に壁にぶつかるということを繰り返していた。
いい加減学習を重ねなさいよ!という声に苦笑する毎日。
何かを書いて出力することは非常に脳みそを活性化させると聞いた。
だから今日は久しぶりに書いている。書いてみて、書きながら脳みそを動かしてみる。
で、何のために生きているのかの答えを、自分なりの答えを今日は用意したい。
神様がこの宇宙を創造したとする。これは本説を解説するために、
分かりやすくするためのエピソードなので、宇宙を神様が作ったか否かは横に置いておくことにする。
神様は何のために、何を目指してこの宇宙を作られたのか。
きっと、それはこんな動機だったに違いない。神様が宇宙を作ったということは、
それ以前、宇宙に存在する意識体は神様唯一であったに相違ない。
一人ぼっちだった訳だ。神様は愛に満ちていて、唯一の存在であるとすると
きっと何も感じることができなかったのではないか。
喜びも悲しみも、そして愛のエネルギーさえも、自分が全部で、全部が自分であるということは、
それ以外のものは何もないということだ。
卑近な言い方をすると「つまんない」ということになる。
これは一大事に相違ない。
何も感情を振るわせるものが存在しない。故に、何もわからない。従って、存在自体が無と同じ。
もし僕が神様だったとして、宇宙に何も他者がないものであるならば、
これは全くつまらないというか、何も起こらない、何に感じないということで、
きっと、ずっとぼーーーーーーーーーーとしているんだと思う。
ところが全知全能の神様は、自分から働きかける能力が(当然)持ち合わせていた。
こうなったら、「他者を作ってみたろ」
そう考えたに違いない。
ここで宇宙は作られる。
自分以外のものができた。これは一大事だ。
自分がいかに大きい存在かは、他者があって初めて認識出来る。
自分を分割して宇宙を作ったという。
これは非常に面白い現象になった。
自分が分割されて、こことあそこにいる。
一人二役。僕たちも俳優になって、一人二役をやると、ふたり分の感情を演技することになる。
これは非常に面白い経験になる。
そして、次々に分割して宇宙から星を生み出し、それぞれの意思でいろんなエピソードが
体験できるようになっていく。
こことあそこがあるから、そこまでの距離と時間も付随的に生まれた。時間差も生まれた。
分割されるごとに、いろんな出来事が自然発生的に生まれる。
もとは一つのエネルギーであったから、その体験は同時に感じれることができる、とすると
これは、一度にたくさんの映画を見ているのと同じような体験になる。
「これは面白いぞ」
例えば、僕は幼いころにレゴというブロックのおもちゃに夢中になったことがある。
夢中になると色々な種類のものが欲しくなってくる。
レゴで町を作りたい。鉄道も作りたい。川も山も、そして飛行場や飛行機、車・・・
レゴはブロックなので、動かないもの。
夢中で作っていると、作ったブロックを手に、いろいろと動かしたくなっていく。
飛行機を手にもって「ぶーん」鉄道を走る列車を手で押しながら「がたんごとん」
神様はきっと同じように、もっとたくさんの種類のものを作りたくなって、
そして「自動的に動く」ようにしたんじゃないかな。
(念のために書いておくと、僕は特定の宗教を信仰もしていないし、逆に否定的にも考えていない、
よもやこの僕のブログが誰かの目に触れて、いろんな意見を誘発するとは思えないかれども)
(このブログは僕が個人的に考えたことを、自分自身の「覚え」のために書いている)
<ちょっとへりくつ>
で、何のために生きているのかの自分なりの本日の答えは
人間を神様が宇宙創造の一環として、自分のエネルギーを分けて作って、そのそれぞれが
自立的に自動的に動くようにしたということは、
何を目的に人間や生物、地球をつくったのか?の答えは案外明白なのではないか/
大いなる目的
それは、きっと「いろんな体験を、それそれの個体を通して、感じたい」ということなのではないか?
これは自分にとって、
今までいろいろな精神世界の本や、宗教、哲学の本を読んで来ての集約的な答えだ。
これは誤解を恐れずに言うと、とても広い範囲での「経験」を体験したいということであるから
大いなる仕組みとしてはとてつもなく、深い。
基本的に「いい体験」「わるい体験」はなく、オリジナルで個々の体験であることが重要で、
そこには何のために人生があるのか?の答えを自分で用意する必要があるというぐらいに大きいもの。
オリジナルな体験を感じたいという神様にとって、
人間がこのように生きるべきだという解釈よりも、実際の許容範囲は広い。
これが非常に怖い。
ほんなら、なんでも ありなのか??
基本的になんでもありなんだろう。
正しい行いというものはない。
基本的には。
しかし、ここまでの段階で、人生は何でもありじゃ!と叫ぶほど、宇宙は甘くないのかも。
これを前提に、さらに考えてみる。
つまり、宇宙(=神)は、自分自身を体験するためにいろんな他者を自分を分割して創造したとする。
基本的に体験を選択するのは、それぞれに自動的に任せた。
あらかじめの脚本はない訳だ。
選択は僕にある。
僕の立場から語ると、どんな体験を宇宙に付加したくて何を選択し、創造するか?
そのチョイスは僕に任させている。
さて、何を選択して、どんな創造をするか?
これが今日のところの答えだ。
これは僕にとって、世界にとって、何を大切にするべきかの物語になる。
世界には悲しみに満ちた戦争や貧困、さまざまな「体験」が転がっている。
基本的に宇宙は、人類や地球が行うなにもかもは許容するぐらいの広さがある。
つまり、何を選択しても許容されるが、
何を選択するかは自分自身の問題で、より好ましい体験を得るために必要な視点を
作るもの私たちであり、環境や戦争などのものがもたらす体験は、何に通じているのかを
考えて選択しなければならない。
歴史は積み重なり、環境は変化し、個々の体験は非常に早いスピードで現実化するようになってきた。
美しさ、楽しさ、達成感、などの+と思われる体験
共同作業や助け合いによって生まれる連帯感、愛に満ちた行動などが
なぜ心地よい感情を生み出すのか?
選択の羅針盤は
憎しみや悲しみの反作用ではなく、
感情がもたらす心地よい方向なのではないか?
体験を得たい宇宙が嫌うものは、一つある。
それは、体験ができなくなるような、ステージの消失だ。
舞台の消失は、体験数の減少につながる。
地球や人類が消失することは、神様が得たいはずの体験の場を失うことになる。
体験の場を消失するに繋がるものは、神様が「困るなあ」と思うはずだ。
人が減少することも、もちろん体験の場の減少につながる。
よって人を誰かの人の力によって、消失するようなことは基本的に「困る」ことなはずだ。
ここまで書いて、深い問題を提示してしまったかもしれないと思う。
人は何故生きるのか?の問いは、なぜ死ぬのか?という問いと表裏一体。
不慮の事故や、何かの人為的なものによって死ぬという「体験」は
神様のいう「体験」にあたらないのか?
基本的な概念でいうと死ぬ体験、こんな事件によって死ぬという体験自体も、
神様が体験したいと思う「いろいろな体験」に含まれるのだろう。
理不尽なことになる。
深いテーマであるし、もしかしたら、このテーマについては
神様が少しだけ「からくり」を用意していて、
生まれた記憶や死ぬ理由は、ブラックボックスの中に閉まっているのかも知れない。
これが明らかになると、予定調和的な、何か脚本があるような人生体験になってしまうからかも
しれない。
毎時間の感情や体験を楽しんでいる神様にとって、
「やらせ」のような人生や、あらかじめ脚本が分かっている「体験」を通じての
感情を味わっても、何の面白みもないのかもしれないし、
そんな卑近な理解では追いつかない大きな宇宙の目的があるのかもしれないが。
今日のところのまとめ。
それは、
何のために生きているのか?という問いを追求するよりも、
「生きて何を成したいのか?」を考えて目指すほうが、
感情は上向くということだけ。
感情を羅針盤にするということが
非常に心もとないようなものではあるが、宇宙は(神様は)無用なものは用意されていないという
立場を導入して考えてみておく。
感情が存在するには、存在する分の何かの理由があるんだと。
たくさんの作家や著作者が、
たくさんの個人的な解釈、深い洞察によって人生を語っている。
神様にとって、それぞれの個体が作り出す「考え」も楽しむべき大きな「体験」として
味わっているのかもしれない。
さて、思いつくままに書いているが故、整理整頓されない文章になった。
校正をしたりすると自己矛盾が明らかになるかもしれないが。
アイディアのヒントとして。
久しぶりのブログで。
0 件のコメント:
コメントを投稿